ルナサ・ストーリー3

ベッキーは、新しくできたこのバンドをなんとかしようと必死だった。当時トレヴァーとドナはシャロンのバンドのバックもやっていたから、シャロンのマネジメント側とベッキーは二人のスケジュールのことで、しょっちゅう喧嘩していていた。私はどちらとも付き合いがあったので、ちょっと辛い立場だったけど、どっちかというと気持ちはベッキー側に付いていた。

ベッキーは頑張った。当時ルナサのことはアイルランドから来る雑誌にも載っていて「もっともエキサイティングな新しいバンド!」と絶賛されていたが、バンドの内部はボロボロだったと思う。「日本でもフェスティバルや大きなホールを満員に」なんていう大嘘記事もあった。いろいろ模索しながら、彼らは自分で自主制作でライブ音源を中心にあつめたファーストアルバムを完成させたのだ。

日本でも当時はまだまだレコード店も元気があった時代で、私がその数ケ月前に発足したレーベルのリリースもうまくいっていた。RUCDという番号は、当時所属していたランクアップ(RANK UP)というPR会社から由来している。ただこのレーベルの仕事を広げるつもりはあまりなかったし、これで自分が独立できるとも思っていなかったので、とにかくメアリーのところのCDだけ、地道に輸入していいければ良いと思っていたのだ。(PR会社の仕事は悪くなかったが,自分の好きじゃない音楽をプロモーションしなくてはいけないのが、地獄の苦しみだった)

何故レーベルをスタートしたのかというと、当時メアリー・ブラックがキングを離れてメルダックと契約したのがきっかけだ。当然のことながらメルダックは「ノー・フロンティアーズ」などの旧作の権利もほしがった。でもここでメアリーのマネジメントと話し合ったのは、日本のレコード会社って契約して最初の3ケ月は、まぁ面倒みてくれるけど、品切れしたら切れっぱなしで、権利だけ押さえ込んだりして、ろくな結果にならないのよね、という事だった。なので私たちは自分たちで旧譜の配給をスタートさせようとこころみた。ある日突然、アイルランドからCDが数千枚送られてきて「これ売ってよ、支払いはいつでもいいから」と連絡が来た。これがTHE MUSIC PLANTの始まりである。だから今だに私はメアリーとマネージャーのジョーには頭があがらない。当時、私はCDをどうやって配給するかなんて知識は、まったくなかったが、おかげさまでいろいろな人に助けられ、半年後にアイルランドに第一回目の支払いをしたときは本当に嬉しかったことを覚えている。

そんなわけでメアリーの事務所にやっとお金が送れるようになったころ、ルナサの話が来たのだ。輸入ビジネスというのは実はスケールメリットを考える事が大事で、あまり細分化して、細かい追加オーダーや支払いが細分化してしまえれば、それだけ利益は目減りし、ビジネス的なメリットが薄れてしまい、やる意味がなくなってしまう。

私はベッキーの頼みだったので、なんとかCDをリリースしてあげたかったが、自分では無理だと考えた。そこでメジャーレーベル数社に紹介しようとしたりしたが、どこもケンもホロロだったし、仕方がないのでウチで出してみようかという事になった。が、問題はバックオーダーなどの整備と経理だ。銀行の送金作業は1件5,000円程度かかる。こんなのをあちこちにしていたらただでさえ利益が少ないのに赤字になっちゃう、というわけで、最初はメアリーのオフィスにベッキーからCDを買ってもらうことを薦めた。私が買い取るので、ベッキーから在庫を買い取ってほしい。ところが、メアリーの事務所は、規模が大きくてビジネスもうまくいっていたことから(そしてその割に少人数で運営していたことから)こんな小さな案件には返事をくれない。もちろん社長にがんがんクレームすればやってもらえたのかもしれないけど、現場のペーペーで、でもいつも世話してくれるバカ・ポール・ヘファナン(あっ、言っちゃった)を無視するわけにもいかず、途方にくれていたのだけど、それでもやっと話がついて、トレヴァーが自宅から車でメアリーの事務所にCDを届けてくれることで話がついた。支払いはただし別々。利益が目減りするのは仕方がない。

一方の来日について。最初のルナサの来日はオーストラリアの帰りに日本による、というものだった。すでにジョンとマイケルが抜け、ショーンとドナ、トレヴァー、ケヴィンというラインアップになっていた。このヘンのラインアップについても、私は当時特にどうとも思っていなかったが、今考えても分るのは、あのマイケル・ゴールディの性格で長期的なバンド活動ができるわけがない。(だから今だにマイケルのバンドは続かない。フルックから抜けたのも非常によく分る)ジョン・マクシェリーも詳しくは書けないけど、また別の理由でツアーが出来る性格じゃない。4人になったルナサとベッキーに私はとりあえず小さなプロモーション滞在みたいなのなら作れるよ、と言った。そしてインストアをブッキングしようとしていたのだが、なにぜプロモじゃ経費がまったく出ない。当時、私はケンソーのライブや、クライブやブーのライブは作ったことがあったが、バンドの来日を自分が作れるとは思っていなかったし、自分でチケットが売れるとも思っていなかった。そうこうしているうちに、ベッキーからの「ファミリープロブラムで」と最初の日本来日は断念された。そして、結果的に、実際、彼らは日本にちらっと寄った。単なるトランジットとして。私はあんなに模索したのに、あんまりだなぁ、と思った。だからバンドに会いに成田にも行かなかった。でもあとでベッキーに電話したら「実はドナが帰ってこなくなっちゃったのよ、He is in love!」ということだった。これがバンドの最初の危機? ちなみにこのときの彼女にあてて書いたドナの曲が「Good bye Ms Goodvich」(はい、実名です。会ったこともありますが、綺麗な人でしたよ)セカンドの1曲めの曲である。名曲。

(4に続く)