「慈悲の怒り」上田紀行 続き

前回の投稿からの続きです。

自分で物事を決めて変えていくことができない日本人
「そして問題なのは、
「敗戦」をもたらしたそうした構造が、この事故の後も続いていること、そしてむしろ強化されているように見えることです」

「歴史のしめすことは、
「不安の回避」によってますます傷口が広がり、「挙国一致でがんばろう!」といった言葉がひとり歩きし、犠牲者ばかりが増えていったということなのです」
「不安は無くすべきものではなく、活かすべきものなのです」

買い占め行動について
「この風景がとても寂しいのは、その行動には前提とされていることがあるからです。それは「私が困っていても誰も助けてくれないだろう」という前提です」

「この大災害に向かいあう中で、自分の人生にとって大切なものと、あまり大切でなかったものが明確に分けられていく。自分がほんとうにしたいことと、ただ周囲に合わせていただけのこと、惰性で行っていたことなどが分けられていく。そして大切にしたいものと、捨ててもいいものがはっきりと分かってくるのです」
「本当にそれでいいのか」という見直しが行われたとすれば大変価値があることだと私には思えます」

「今回の震災で死と向かい合った人は、人間の生死を見据えた人生観の中で生き直すことになると思います。それが父親の死だったり母親の死だったりすれば、いったいこの父親は何を残そうとして死んでいったのだろうか、この母親は何を残そうとして死んでいったのだろうかと人は考えるものなのです。そしてこう問うのです。
「私はそれに応えて生きているだろうか」と」

「重要なのは助け合う仲間でしょう。不安に押しつぶされないようにする第一歩は、まず「不安」を表出することだと思います。私は不安なんだと誰かに言うことです。そしてそれを聞いてくれる仲間が必要です」
「この震災は私たちに大きな不安を与えました。生死を目の当たりにして、自分の生き方が揺らいだ人も多いと思います。しかしそうした体験は心の琴線が触れ合うきっかけとなります。そして
そこで生まれた関係や絆が、「第三の敗戦」から立ち直り、震災からも復興していく力を生み出していくのです」

「(日本人は)「正当な怒り」「生産的な怒り」がとても苦手」
「怒りは決して人に対してぶつけてはいけない。その行為に対してぶつけなければいけないのです」
「行為に対して怒りを持ち,しかしその怒りを、それを生み出した原因は何か、そのシステムとは何かを探求するエネルギーに変えていく」

「原発の現場で被曝のリスクにさらされながら働いている関係者の人たちと、システムとしての東電や国を明確に区別しなければいけません」

未来への責任「私たちは「責任」と聞くと、すぐに「過去の過ちの責任を取らされる」といったように、過去の出来事に対しての責任を、それも「取らされる」と受動態で考えます。しかし私たちが担っている、より大きな責任は,私たちがどういう未来を築いていくのか、そして私たちの後続世代にどのような社会を手渡していくのか、という
未来への責任です」
「何とか安泰に生きられればいい、将来世代がどうなろうと、ひとまず私が幸せに生きられればそれでいいじゃないか。それは究極のエゴイズム。
その幸せの小ささはいかばかりでしょう