ポール・ブレイディ来日までの道のり29:Trick or Treat

91年。私はすでにその前の年にメアリー・ブラックに出会い、このアルバムからポールの音楽もリアルタイムでしっかり聴くようになりました。もちろんS石さんたちのご教授で、すでにポールのファンにはなっていたものの、メアリー・ブラックと仕事を始めたから、他社のリリースも気にするようになったということの方が大きいかな。あの頃の私は本当にメアリー100%だったから、メアリー以外は全部、敵!(笑)そう、このアルバムは日本でもメジャーでリリースされたから、私も日本のレコード会社がどんな対応をするか、非常に興味を持ってながめていたのでした。

この頃の洋楽のプロモーションってすごかったんですよ。今でも時々そういう事あるらしいんだけど、フリーのライターさんをレコード会社の洋楽部でお金を出し合って取材に送りこむってやつをよくやってました。費用だけじゃなくて日当まで渡して現地に行ってもらう。そして、それがそのライターさんの持っている媒体の記事になるという仕組み。それを見た雑誌の読者は「これが流行っているんだ」と思いCDを買う。広告でもないのにお金を持っているところが優先されるという… 本来なら取材はライターさんとか媒体が自主的にやるべきだと思うし、ニュートラルな立場を維持するためにも、必要以上のサポートをメーカー側が出すのは間違いだと思うけど、ライターさんも原稿料だけじゃ取材費もでないから大変なんだ、という事もあった。もちろん自主的に海外取材している人も多いですよ。でも、まぁ、いろんな仕組みがあって、いずれにしても、当時は洋楽バブル期?だった。そういったライターさんの費用を洋楽部数社で折半することが日常茶飯事だったので、当時たくさん女性誌とかに書いていたI氏がメアリーと、そしてポールの取材のためにアイルランドに飛ばされたわけです。

ちなみに余談ですが、このIさん、だいぶ前に業界から消えたなと思っていたのだけど、最近お名前をググったら無免許でつかまったという記事が。いったいどうされているんでしょうね……元気にされていれば良いのですが。当時の私は右も左もわからなかったので、本当にいろいろお世話になりました。実際、ポールの取材もしたIさんにお願いしてポールにサインをもらってもらったんです。

これが私が手にいれたいっちゃん最初のポールのサイン。その後、私はポールとアイルランド大使館のパーティで初めて出会い、そしてその後ロンドンのホテルで再度会い、そこでまたサインをもらったのでした(昨日の投稿参照)。もちろんまだただのファンとして、です。それにしても当時のレコード会社のこの邦題「ロマンティック・ダンディ」もひどかったけど、この時Iさんの書いたライナーもひどかったね。「AORで売りたいんです」みたいなレコード会社の若い女性ディレクターのコメントを下敷きにして、ポールではなくAORのことを2ページほど書き、あとはバイオの日本語訳半ページほど丸写し。でも当時は私も若かった。25くらいで、まだ音楽業界での経験も少ないもんだから、これはこれでありなのだとさえ思っていた。取材記事もFMfanとかに確か載った記憶があるが、どんな記事だったかもよく思い出せない。まぁ、そのくらい印象が薄いということだろう。

とはいえ、日本のレコード会社も曲がりなりにも正式リリースし、現地取材にまで人を送りこんだくらいだから、まさにレコード会社は全世界的にこのアルバムを売ろうとしていたに違いない。というか、どう考えても日本で大きなヒットになりそうにもないこの作品。海外からのプレッシャーがなければ日本のレコード会社はリリースすらしないよね。

このアルバムの制作過程について:ポールは「プロデューサーが必要だ」とレコード会社にいわれ「Yes」と答え、本作はスティーリー・ダンのゲイリー・カッツがプロデュースをつとめて、LAで録音された。バックもマイケル・ランドウとか、ジェフ・ポーカロとか、そういう連中で、プールサイドでマティーニ飲んじゃうみたいな豪華なホテルに泊まりながら、毎日同じスタジオに通うのに、各自に車が与えられるような超ロック「スター」な経験だったとポールは話している。

でもシングルになったのは、ポールがロンドンで自分で録音したというこの名曲。


これがね…ポールの場合、ギター1本でやるんですけど、本当にすごいんですよ。


思うんだけど、ポールったら、結局このLA録音にあまり賛成じゃなかったのかなと思う。公には文句を言っていないし、本当にLAの連中は素晴らしかったと発言しているけど。でもここまで長くやってきてて、ヒットが目の前で、マネジメントも本人も突破口的なアルバムが欲しかったんだろう。考えた事はなんとなく想像できる。だけどポールは、そんな制作側の連中と喧嘩してでも自分の一番大事なこの曲だけは守った(自分で録音して自分でミックスした)というオチじゃないかと思うんだけど……違うかな。

実際ポールには、そんな事が直球で聞けるわけもなく(笑)、今でもその点は分からないままだ。もっともポールもこのアルバムを今では非常に好意的に受け止めているらしいけど。

Up on the rooftop, it's whole other world
Who could see heaven 
and not want to stay?

ポールはこの曲をビートルズのアップルビル屋上の“Get Back”にヒントを得たと言っている。「あれは<僕らの世界だから僕らのやりたいことをやる>といった態度の象徴的なものだったと思う。でも、振り向いたら、誰も自分のことに注目していないとしたら? それどころかそこに誰もいなかったら?」 

それにしても、メアリーと同郷のポールのアルバムが、こんな内容だと聞いて、私も「へぇ〜LA録音ね」と思ったし、フォークファンから当時はブーイングの嵐だったと記憶している。でも今聞いても大好きだし、実際すごく素敵な曲が入っている。“Nobody Knows”なんかは、今、ポールのコンサートにいってこの曲が聞けなかったら、それこそブーイングになるような人気曲だ。

そして、例えば“You And I ”とか、“Blue World”とかも名曲だと思う! “You And I”とか、ライブでは絶対にやらないんだよな〜っっ。


“Blue World”も、あの枯れた感じが超かっこいいよね。今度のライブでもやらないかなぁ。前回の来日のときはやってたと思うけど。

それから名曲“Don't keep pretending”は、ポールがあとからピアノのアコースティックなヴァージョンでレコーディングしなおしてたけど、もう超涙もの! おそらく不倫を歌った思わせぶりな歌詞。もっともこのアルバム収録時はゴージャスなアレンジで曲自体の良さがわからなかったけど。

それにしても何度も書くが、まったくもって、このCDを買った頃の自分に言ってあげたい。人に頼んでサインなんかもらってる場合じゃないぞ、と。20年以上たった今、ポールがまだ現役で頑張っていて、私がこの仕事をまだしていて、一緒に来日が企画できたんだぞ、って。

あの時の自分は音楽業界のすみっこにいたけど、音楽の仕事をきちんとしていなかった。今でもレコード会社で経験したことは反面教師でしかないと思っている。私がちゃんと「音楽の仕事」を出来るようになったのは、プランクトンの川島さんに出会ってからだ。川島さんと出会う前の私は音楽業界で仕事はしていたが、考え方がまるでなってなかった。川島さんは私が独立するときに「大変だろうけど、好きなアーティストについていけば絶対に大丈夫」と言ってくれてお祝いまでいただいた。あの言葉は今も私をずっと支えているし、今でも若いバンドの連中に言ってきかせたりしている。