ポール、1年くらい前のインタビューより

ポールが『Hooba Dooba』のリリース時に、Irish Mailという新聞にスペシャルCDの付録をプロモーションとして付けたのですが、それにともない同紙にインタビューが掲載されたので、私のつたない訳でお楽しみください。

このインタビュー、ポールのHPにも英文が上がっているので、英語が分かる人はオリジナルを読むべきだと思います〜。

 さてさてその前に… アイルランド音楽業界のイヤな野郎3名というのがあったんですよ。というか、今でも充分あるんですけど。そのうちの二人がポール・ブレイディとヴァン・モリソン(あと1名は自粛)なわけなのですが、この記事もそんな話から始まります。


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ポールが気難しいという評判は、彼の音楽的な成功より前提として存在していた。だから彼の南ダブリンの自宅を訪ねた時、ポールの、おしゃべり好きな空気は驚きでもあり、僕は心底ホッとした。

もちろんポールに、影がないわけではない。ポールは最近亡くなったお母さんモリーとの人間関係には苦悩した、と告白している。ポールの分析によると、たぶん彼女はポールの父以外の人と結婚したかったと感じていたのではないかという。彼女が生きている間、それはポールには分からなかった。これは自分のことを話すことについては、慎重である有名人において、本当に見事な洞察である。今では、ポールは自分が何者であるかということについて、やっと居心地のいい場所を見つけたのだ、という。この歴史的にも偉大なシンガーソングライターに実際にインタビューし、それは本当だと言うことが分かった。 

彼は自宅の脇にたてられたスタジオに座った。僕は彼のことを非常に魅力的で、謙虚で、そしてとってもユーモアのセンスがある人だということに感動した。そして徐々に、彼がとってもオープンな人だということも分かっていった。 

「自分が引っ込み思案で難しい奴だとメディアに思われているのについては、ほんとうに残念に思っているんだ」「ポップスの世界ではみんなそうだったのかも。ちょっと変わっているのがいいとされたのかもしれない」 「それは真剣に取り上げるほどの事じゃない。僕は僕の仕事については非常に真剣だが、それは僕が横柄でいやな奴だという意味ではないよ。僕は今の自分自身をとても気に入っているし」 

でも自分自身が現在の心境までたどり着くまでの間、それはとても長く難しい道だったとポールは言う。

「僕が20代のころ、僕は感情的な霧の中にいた。僕が気にするのは音楽のことだけだった。女の子には興味なかったし音楽以外の興味なんてなかったよ。すごく内向きで、それは自分自身に対しても同様だった。30になって、やっと開いてきたかなぁという感じだった。で、やっと結婚して物事は少しずつリアルになっていった。家庭を持ち、家のローンにおわれ、子供が生まれ、まったく新しい世界さ。いろんな経験が僕をこういう人間にしていったのさ」

今、63(ちなみに現在は64。今度の五月でになります)のポールはタイローン(北アイルランド人はティローンという)州のストラバーンに生まれ、寄宿者学校でのひどいいじめにより内側にこもるようになった。

「自分なりの作戦を考えたのさ」「寮にいた時、それが自分を守る唯一の方法だった。学校を離れたあとも、内にこもる性格は僕の中に留まったのかもしれない。本当にとある人物からひどいいじめを受けたんだよ。精神的な拷問だった。僕の人間としての自信はどんどん浸食されていった。でもこのいじめを行っていた人物は僕の音楽の才能に魅了されていたとも言える。いつも僕は彼のために歌うように脅されていた。<大好きだけど、殺すかもよ>みたいな感覚だろうか 大変なストレスだった」「寮に入る前、音楽は僕の一番の友達だったのに、学校にギターを持って行く事すら許されなかったんだから。11から16になるまで僕は学校が休みの時しかギターにさわれなかった。音楽は、僕にとって嘘をつかない、まったく別の世界だった」

ポールは両親と同じように学校の先生になるべくUSD大学へと進む。でもポールはローカルなバンドと音楽を演奏するという人生のギャンブルに出る。ファイナル試験に落ちて、大学を卒業することはできなかった。

「でも僕はいい先生にはなりえなかったと思うよ」と彼は主張する。「先生になるには忍耐力が必要だ。僕の父も学校の先生だったけど、教えるのは好きじゃなかったと思う。他の世代に生きていたら、たぶんプロフェッショナルなアーティストになっていたんじゃないかな。でも教師は手堅い仕事だったんだよね。父はとっても素晴らしい才能に恵まれていたし、とても愛すべきキャラクターだった。すごく気楽な人で、それがもしかしたら母にはあわなかったのかもしれない。たぶん母は、父とは違う別の人と結婚すべきだったと後悔していたんではないかと思う。母の人生はあまり幸せなものではなかった。彼女に起こった出来事というよりは、彼女の理想と現実との大きなギャップを考えるとね。だいたいの人は現実と折り合いを付けてどうやって生きていくか学ぶものだけれどね」

ポールは自分の自伝的な曲を書こうと20年とりかかっていた。「母と子 Mother and Son」という歌だ。それがやっとお母さんが亡くなって完成したのだという。この曲は新作『Hooba Dooba』に収録されていて、音楽評論家たちはこの曲がポールの最高傑作の一つだと絶賛する。

 「彼女が生きている時は語れなかったことだ。もし彼女が聞いていやだと思うことを話すのはイヤだからね。僕と母は簡単な人間関係じゃなかった。分析するに僕らはきっとお互いに似すぎていたんだろう。間違った方法で常に摩擦を起こしてきた。彼女は孤独な人だった。それが子供だった僕を非常にイラつかれたし、僕は風船を割りたくてしょうがなかった。彼女が彼女であることにとても腹をたてていたんだ。彼女が亡くなって1、2年してやっと彼女の気持ちがわかるようになった」

ポールは付け加える。「彼女が亡くなる2,3年前は彼女は自分を引っ込めてしまった。それが僕が歌の中で言っていることなのさ。彼女は介護施設にいたんだが、会いに行っても僕のことがよくわからないようだった」

お母さんは、息子の成功についてはとても喜んでいるようだったが、よくポールのことを同時期のアーティストと比べていたようだ。

「そうだね、彼女は僕のことを誇りに思っていてくれたと思う。だけど、僕のところに来て、ポール、エルトン・ジョンはあなたより上手いピアノ奏者なのかしら、とか、クリス・デ・バーはあなたより上手いソングライターなのかしら、とか言うんだ(笑)」「彼女はエルトン・ジョンが世界的なスーパースターだと考えていて、彼女の息子はそうじゃないという状況を分っていた。たぶん頭の中で、なぜなんだろう、エルトン・ジョンの方がピアノが上手いのかしら、と思ったんだろうね。でも彼女はそうは僕に言わなかった」

大学を退学すると、ジョンストンズよりも前にいくつものバンドを渡りあるいた。だが、彼の名前を有名にしたのは、クリスティ・ムーアと交代で、74年にとても影響力のあるバンド、プラクシティに参加したときだ。

「なぜクリスティがバンドを抜けたのか分からない。でもそれは僕にとっては良い事だった。アメリカから帰国して物事が上手くいかないだろう時に、もっとも有名なグループに誘われたんだんだ。そして皆が注目してくれた」もちろんそれは簡単なものではなかった。「1年半、プランクシティに居た。音楽的には素晴らしかったのだけど、ビジネス的にはとてもイライラさせられた」「とにかく大混乱だった。完全にグチャグチャ。マネジメントはないも同然だ。解散の理由はいくつもあるが、 とにかく最初の数年バンドは税金を払っていなかったから、僕は在籍してまもないのに税金をたくさん払わされ…とにかく何かがなされるべきだったのに、きちんとしていなかった」

2003年のプランクシティの再結成について:「再結成が行われることすらも新聞で知ったくらいだよ。再結成に加われなくて残念とは思わなかったけど、ちょっと失礼だよね。誰かが事前に僕に知らせてくれても良かったのに。“再結成するけどお前は入ってないよ”と。そしたら納得するのにさ」

75年のバンドの解散のあと、アンディ・アーヴァインとポールはプランクシティの元メンバーたちと録音し、それはとても高く評価された。そして『Welcome Here Kind Stranger』は最近になってCDとしてリイシューされている。 ポールの次なる動きは顕著だった。フォークシーンを離れ、ロック&ポップスの世界へと進んだのだ。ボブ・ディランがエレクトリック・サウンドになったのと同じような世間のリアクションだった。

「確かにメディアは多少脚色してたよね。確かにボブ・ディランのケースと似ているかもしれない」

ヴァン・モリソンはポールを避難した。ブルース・スプリングスティーンやボブ・シーガーと引き合いにだし、この3名を「猿ども」と表現したのだ。ヴァンは「自分のやっていることを真似する奴ら」と表現することに躊躇しなかった。

ポールの説明。「ちょっとパラノイアだよね。ヴァン・モリソンと僕に遠く離れた共通項があるとすれば、リズム&ブルースが僕ら二人とも大好きだという偶然の一致だね。そして僕ら二人ともそのスタイルの歌い方だ。ヴァンを批判したことはないよ。ヴァンは素晴らしいアーティストだ。ただ時々もう少し幸せでいてくれればいいのに、と思った事はあるんだ。分かるだろ? 実はヴァンは僕にアプローチしてきた事もある。実は一緒に曲を書こうとしていた時期があった。でもそれは成功しなかった。でもそうやって僕のことをそれなりに認めているのさ」

ヴァンは謝罪したのか?「いや。たぶん彼はそんな事を言ったことすら覚えてもいないよ! まぁ、実際彼のことはよく知らないんだよ。人が言うには、ヴァンは自分について書かれたすべてをチェックしているらしいけど。ヴァンがリズム&ブルースを発見したわけじゃないだろう。それだけさ」とポールは笑った。

40年のキャリアにおいて、彼は12枚以上のソロアルバムをリリースした。ポールのヒットシングル“Crazy Dreams”などは今でもアイルランド人が面と向かっている海外で働くという事についてふれている。

「あの曲に思い入れがある人が多いみたいだ。またこうして移民する人が増えるにつれて、また人の気持ちに寄り添っていくんじゃないかな。家に帰ってくる時の気持ちとか、そういう事さ。コンサートでももっとも人気のある曲の一つだ。イントロが始まっただけでお客はすぐ騒ぎだす」70年代のランドンに住むアイルランド人の苦悩を表現している。僕がジョンストンズと一緒に69年から73年の間、のトラブルが激化していた。アイルランド人というだけで怪しまれた。アイルランド訛りがあると、危険人物とすぐに思われたんだね」

「本当にロンドンのアイルランド人にとってはつらい時期だった。本当に偏見だったよ。犬とアイルランド人はお断りみたいな50年代ほどはひどくないけど、それでもアイルランド人は蔑まれていた。60年代の後半から70年代にかけてロンドンは居心地が悪かった。ほんとにテロリストか、芸術家なのかなんて区別がつかなかったのさ」

ローナン・キーティングと一緒に書いた“The Long Good Bye”も名曲だ。二人はまたポールの最新作『Hooba Dooba』の“The Price of Fame”という歌で共作している。このボーイゾーンのシンガーと、ダンサーのFancine Cornellについて。「本当に可哀想に思っている。でもそういう世界に生きているって事なんだよね。ローナンは有名人だから。僕は僕自身のことを有名だとは思っていないけど。でもこういう名声というのはパパラッチの名声なんだよ」

また“Nobody Knows”は、エルヴィスの悲劇的な死をとりあげ名声における暗い部分の話を歌っている。


「音楽ビジネスはとても誘惑的なビジネスだ。オペレートしていく上で行き詰まることはとても多い。成功/名声のゲームに陥るのさ。エルビスは神のようだった。彼は美しく、セクシーで、才能もあったし、世界規模の成功も得た。想像しうるすべてを手にいれて、好きな女を選ぶこともできた。で、どうしたかって? トイレに座ったまま死んだのさ」


ポールは自分が素晴らしい音楽のキャリアと、プライベートな充実した普通の生活を両方手にしたことをすごく喜んでいる。


曲“The World is What You Make It”について


「あの曲で言いたかったのは、ほんとに自分に努力し、そのことによって自分が達成したい世界を作ることができると言いたかったんだ。本当にそうだよ」とポールは付け加えた。このような素晴らしい前向きの精神。ポールが横柄で難しい奴だという評判がたつのが信じられない。


2011年1月のIrish Mailのインタビューにて
(日曜版で、ポールのベストセレクションCDが付録となった) 


Later with Joolsより。かっこいい〜♥