ヤルヴェラ家の人々 続き

すみません、ずいぶん前に中断しちゃったこの連載(?)また少し書いていきます。

写真はちなみに上がアルトの家族。左からアルト、飼い犬、お姉さん,お父さんだそうです。このトラクターがいかにもペリマンニ。

下のヴァイオリンを持っているのはエスコ。二人とも全然変わってないですな(笑)
アルトですが、ヤルヴェラ村で生まれたわけではありません。お父さんはアルトが生まれた時点でハメーンリンナの近くのパロラという村に移住しており、お母さんとそこで家庭を築いていたわけです。お父さんはもちろんカウスティネンの出身だから夏になるといつもアルトは家族でカウスティネンに帰省していた。そここそがアルトの音楽がいつも住んでいる場所になるわけです。

アルトのひいおじいちゃんはアンティ・ヤルヴェラ(1876-1955)と言って、とてもとても有名な結婚式フィドラーだったそうです。おじいちゃんのヨハネス、そしてお父さんのアールネも素晴らしいマスターフィドラーだった。ヨハネスのことは前回でもお話ししましたが、フィンランドのペリマンニ音楽をステージにあげた伝説のフィドラー、コンスタ・ユルハと同じバンドにいたりした。

そして、おじいちゃんがある日雑貨屋で買った(!)フィドルをアルトにくれたのだそうです。楽器を手にする前から伝統曲を何曲も覚えていたアルトは、すぐに楽器を弾けるようになります。そうやって家族から音楽をならいつつ、いつくかの正式な教育も受けつつ、いろんな楽器を習得していきます。

そして彼はファミリーバンドIsat ja Pojat(fathers and sons)でドラムやエレクトリック・ベースを演奏しはじめます。このバンドについてはおそらくかなり営業色が濃いものだったと思われます。パーティでの営業バンドですね〜。この時のメンバーは父さんのアールネと兄弟のユンニ、そしてティッモ・アラコティッラと、そのお父さんのトイヴォになります。だからティッモとアルトは幼なじみなんですね… それにしてもあの二人が会話してるのなんて見た事ないわ(笑)(【ポイント1】ペリマンニは語らず)そして77年にはJarvelan Pelimannitというグループでフィドルを演奏するようになるわけです。

でもまだ12歳とかそのくらいだよ… いつだったかアルトがインタビューに答えて(たしか松山さん)「僕はヴァイオリンを始めたのが遅いんだ。13歳くらいから」と答えていたのは、これのこと?(謎。ペリマンニは謎が多い)

アルトはアイス・ホッケーも得意だったようで(そういやアルトみたいなルックスってアイス・ホッケー選手に居がちかも)「アイスホッケーやらずにフィドルやってりゃ、もっと上手くなれたのに」とか言っちゃったりしてるらしいです。アルトらしい! 一時は88時間も練習し、そのおかげで前歯がかけたそうですが(笑)とにかくハメーンリンナのジュニア・アイス・ホッケー・クラブに入ろうとするくらい本格的にやっていた。でもお父さんに強制されてヴァイオリンを弾くようになった。ま、最終的にお父さんは正しかったわけだけど、ちょっと可哀想ですよね。で、ホッケーはあきらめて、音楽に専念。

最終的にカウスティネンの音楽カレッジに行くことになったわけです。おじいちゃんの家に下宿し、いよいよここから本格的にヤルヴェラの伝統へとどっぷりつかりはじめた…(続く)

ところでこちらのバンドのフロントの方もヤルヴェラって言うのね。