ヤルヴェラ家の人々‥っていうかアルトの物語


アイスホッケーをあきらめて音楽に専念することになったアルトですが、アルトがヴァイオリンに真剣になる頃、JPPの起源となるようなものが生まれたと言ってよいと思います。ちょうどカウスティネンのカレッジに行き始めた頃。アルトは以前日本でのインタビューで当時を回想して、シベリウスアカデミーでのちに音楽を学ぶようになった時よりも、ずっとリッチな音楽体験をここで出来た、と話しています。

そもそもアルトはお父さんもフィドルをやっていたわけですが、お父さんよりもやはりおじいちゃんの方になついていたっぽいですよね。大学という場ではなく、本当に在野のプレイヤーたちと触れることが出来て、音楽とともにある生活を体験し、アルトにとってこの時期はとても重要な時期だったと言えます。

そのころ、ティッモはハーモニウムを演奏し始めていたし、兄弟のユンニはバンドでベースを演奏始めていて、その年のとあるコンペティションで優勝したりもしたので「JPPは、だから僕らは僕が17才の頃に始めたと言えるね」とのことです。

「JPPは他のバンドとまるでちがう。テンプレートは古いペリマンニのスタイルーフィドル、ベース、ハーモニウムーという編成だが、ものすごく豊かな新しいで、スムーズで力強いオーケストラのような効果…フィル・スペクターのWall of soundを目指したんだ」


「JPPはいわゆる典型的な伝統音楽バンドのレパートリーの外にまで手を広げるようになった。タンゴまで演奏するようになった。今ではみんな当たり前のように演奏してるけどね」

アルトいわく、彼が最初に書いて曲がタンゴで、バンドはそのまま自然とタンゴを演奏するようになったという。ダンサーのために演奏していると自然とそうなっていったらしい。人々はそのくらいタンゴを踊るのが好きだった、とのこと。

「ダンスホールで演奏しているとポルカや他のダンス曲はうけなかった。みんなタンゴか、ワルツか、時々ショッティスを踊りたがったんだ。これらのダンス曲を演奏するのが僕たちも大好きだった。僕たちにピッタリだったし、演奏するのはとても楽しかった」

JPPは多くのアルバムを発表し、世界中をツアーし、フィンランドで最も重要なフォークグループとなったが、それに連れてアルトはフィンランド伝統音楽のニューウェイブともいうべきグループと次々と関わるようになっていくわけです。もっともイノベィティブなグループがキッモ・ポーヨネンとのデュオ、ピンニン・ポヤット。そして他にもアルトがフィンランドのポーグスと呼ぶコイヌリットなどユニークなグループなどなど。

次回に続く‥