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2012年2月29日水曜日

御大、元気に到着しました〜 ホッ。


ポール、元気に到着しました。とにかく元気です! 良かった。それにしてもあまりの緊張ですでに私はくったくた(笑)とりあえず初日は無事終了。9時すぎには部屋に戻ったので、ちゃんと寝れるといいけどな‥‥時差ぼけがひどくありませんように。
 
それと、御大、なんとマンドリンを持ってきています!! 楽しみ。なんか珍しい曲をやってくれるのかな〜。Welcome hereの1曲目あたりを期待したいところですが、どうなんでしょうか。すごく楽しみ。ただセットが1部になるか2部になるかは分かりません。まだいろいろ考えているみたい。

明日はとりあえずオフですが、オフショットも期待しててください。あと業務連絡はなんだろ‥ また書きます。とりあえずもう寝たい。が、メールが多いなぁ、今日も。

でも来年1月に考えていたバンドが決定できたので、これまた楽しみ。なんというかいろいろ同時進行だけど、ポールに集中したいよー(涙)

全然関係ありますが、なんとポール4月に新しいアルバムが出ます。アンソロジー2枚組なのですが、これも楽しみですね。残念ながら、これはまだアートワークを製作中でまだ実物はありませんが「このリリースでまた来てよ」と言ったらニコニコしてたので、まんざらではないのかも。とにかく今回の来日の成功が、将来にかかっています。何とか,続けられるように‥ みなさん全力でポールを応援してくださいね。

そして御大が持って来てくれたHooba DoobaTシャツ。たったの10枚です。競争率高し!
Lサイズ5枚、Mサイズ5枚。

2012年2月28日火曜日

Paradise is here



この映像紹介したっけ? オーケストラとやっている映像。

1秒1秒を真剣に生きれば、それは自分の未来を創造していくということ。Paradise is here,  Future is this moment.

オーケストラとの演奏ってリズムが固定されちゃうから、ポールや、エディ・リーダーやメアリー・ブラックみたいに歌に独自のリズム感がある人は難しいんだけど(ためて、ためて、落とすみたいな)、これはうまくいってるよね。オーケストラの音を聞きながら、ポールが嬉しそうにするのがいい。

ポール・ブレイディ、今日、ダブリンの自宅を出発して日本に向かいます。

なおチケットを通販された方へ。すべてのチケットは投函が終わっているはずです。いつもツアーが始まってから「チケットが見つからない」「届いてない」とかいう人がいますが、今、確認してくださいね、今。御大が到着しちゃうと私もいっぱいいっぱいですから。

今週末の公演は吉祥寺Star Pine's Cafeにて。18時開演。両日とも当日券は出す予定です。

サラーム海上「21世紀中東音楽ジャーナル」

旅ジャーナルを読むのが好きである。だから数日前からパキスタンに出かけてらっしゃるサラームさんのブログがアップされるたびにもうワクワクである。私などがまったく知らない土地の名前や食べ物の名前がたくさん出てくるが(あ、もちろん音楽すらも/笑)、とにかく見ているだけでワクワク。写真も上手で、とっても楽しい。

そのワクワク感が本になったのが、これです。『21世紀中等音楽ジャーナル』。

よく海外出張に行くといいですね、と簡単に言われるが、実際行ってみりゃ大変なんだって(笑)。慣れない言葉に慣れない土地、慣れない食べ物。まぁ「気分転換」になることは絶対に間違いないが、それ意外にはあまり良いことなどない。もっとも私が行くエリアなど、東京と対して変わらないけどね。サラームさんが誰も行かないフロンティアを旅してらっしゃるのに比べると。とにかく海外出張はすべてが時間との戦いなのであるが、そんな中、ブログを書くのは大変だと思う。(つーか、そもそもネット回線も細いみたいだし!!)

だから出張中や、私の仕事で言えばツアー中にブログがアップできないのは、普通なのであるし、それを自分も充分理解した上であえて発言すると、それにしても…音楽ジャーナナリズムはいったいどうした?!と言いたい。海外取材や……まぁ、そこまで行かなくても新譜を聴いたりライヴを見たりしているはずなのに、それをしっかりレポートをする人があまりに少ないのにびっくりしてしまう。もっとも雑誌やメディアや、事業における企業秘密的なものがからんでいると、雑誌からギャラをもらうまで秘密にしないといけないとか、そういう事も多いのだろうが。

いずれにしても、こういったブログやレポートをサラームさんのテンションでやる人はサラームさん以外にいないと思う。本当に頭がさがる。(あと佐藤英輔さんのライヴレポートも本当に素晴らしいと思う)

そもそも音楽メディアがどんどん減って、一般誌/紙が音楽コーナーを削減していく中で、一緒に音楽のジャーナリズムまでもが衰退してしまうのは間違いだ。あの被災地での手書き新聞にもあるように、そもそも発信する人はホームページ、ブログ、Facebook、Twitterなど、全力で、全方向でやらないといけない…はずだ。いや、ホントに大変な時代になったし、実際そういうのに向いていないという明らかな人もいたりするので、それはそれで仕方ないのだけど(それに人それぞれ、それぞれのワーキングスタイルがある)、それはまぁ、棚に置いておいて、その一方で努力すればそれだけ報われるというのも事実だと思うのだわ。それをサラームさんは実現していると思うし、そんな活躍するサラームさんを見て、私や、周辺の人たちも、どれだけ勇気づけられている事か!と思う。一方、どっかのロック雑誌の編集長が新聞の時事系の記事を写メして短いコメントをつけているだけのブログを見ると、なんだか会社に来てビルボード読むしかしてなかったレコード会社の閑職の洋楽親父を思い出すのである。(あぁいうブログだったら返ってやらない方がいいですよ、とアドバイスする人は編集長の周りにいないのだろうか)

サラームさんの周辺の音楽はウチのやっている音楽とは、あまり交わらない。だから私もサラームさんには無理やりウチのアイテムをプロモーションしたりはしない。普段の氏の活動を尊敬するがゆえ……唯一お願いしたのはヴァサラットくらいかな…。あれはちょっとバルカン入っているから。でも、やっていることのは違っても、力を入れる方法が一緒なのか(とか言うと偉そうだけど)、サラームさんには共感することがとっても多いのだ。

そもそも毎日エキサイティングな生活をしている人は、過去を振り返らないし、起こったことはそれこそブログに書いてとっとと忘れて、次に行くんだよね。過去を思い出し、いつまでも過去を愛でているようじゃダメだ。いつだって今が一番おもしろい! より面白いことを次にやるために、そしてとっと忘れて次に行く為にも、ブログに書く。この感覚は私も一緒だから、すっごく分かる。

というわけで、この本には、本当にパワーをいただきました。奥様の若山ゆりこさんの可愛い本も、もうすぐ出るそうで、本当は2冊そろってから書こうと思っていたのですが、時間がどんどんたっちゃうので、今、書きました。明日は明日で読むべき本があるから(笑)そして、サラームさんの現在の旅の続きが楽しみです。

とにかく読んでいて楽しいのは、すごく大変な旅ではあるのだけどサラームさんがそれをすごく楽しんでいるから読んでいる方も楽しいのだ、という事はあるね。究極的には、この大変な旅を楽しめる、そういうご自分が好きなのだと思う。その感覚は私も一緒なので、すっごく共感できる。…と私は勝手に解釈しています。ご本人に聞いたら全然違うかもしれないけど。

それにしてもワールドミュージックを「かっこ良いもの」にしたサラームさんの功績は大きい。それまでワールドミュージックって、貧乏くさくて、田舎くさくて、あか抜けないものだった。それか、学者的でコ難しく近寄りがたい物だった。もちろんサラームさんだけじゃなくて、いろんな要素や功績が重なって、今の東京のワールドミュージックシーンがあるわけだけど、ジャーナリズムの世界においてはサラームさんの功績は本当に大きいと思う。それは時々ブログで紹介されるご自身の楽しそうなライフスタイル(特に食べ物!)にも寄るところも大いにある。

そうそう、あと絶対に書いておきたいのは、全編につづられるユーモアのセンス! サラームさんが、いつだった某(食事のまずい)ヨーロッパの国の料理について「機内食みたいですね」と言ってらしたのには爆笑した。そう、サラームさんのユーモアのセンスも、重要な要素なのだ。

いずれにしても、ものすごい充実の1冊である。ほんと固有名詞が分からなくても、面白い本は本当に面白い。取りあえずコラム系は飛ばして読んでみたが、終始わくわくさせていただいた。最後のエジプトの章は圧巻。もちろんあの名言「初めてアメリカをイイ国ではと思った」と言う下りもバッチリ載っていますよ。詳しくは皆さん、買って読んでください(笑)


ポール・ブレイディ来日までの道のり35:Hooba Dooba

ポールはこの作品を2008年から自宅でエンジニアのキーラン・リンチとレコーディングを始めたという。最初スタジオに呼んだのは、SONG BOOKのDVDにもさんざんでてくるドラマーのリアム・ゲノッキー。自分のアコースティックな演奏とリアムのドラムを録ることで、グルーブ的なもの(ポールのリズム感覚ってちょっと独特だものね)を固める事に成功すると次に呼ばれたのはジェニファー(イアン)・メイドマンさん。すごくいいプレイヤーで、ペンギン・カフェとかもやってた人。彼女がベースを加えつつ、キーランが他の仕事をしている間もキーランが自分の機材をポールの自宅スタジオに置いておいてくれたので、そのままポールは自分で録音を続けていたらしい。そこにギターやブズーキ、ピアノ、キーボード、パーカッションなどを加えて行く。また息子さんのカルムもハーモニカを吹いてくれたそう。

ちなみにポールの息子さんの写真。Facebookページより。若い頃のポールにそっくりで、目の色が深い緑と茶色で、すっごく素敵なんだ。(最近お父さんになりました。つまりポールはおじいちゃんになったんだけど、この孫がポールに似ていて驚愕!!)実はちょうどケルクリの時期に日本に観光に来ていて、ガールフレンドとコンサートに来てくれたこともある。

2009年になって、ビル・シャンリー(ギター)や、アント・ドレナン(ギター)、ロッド・マケヴォイ(ハモンドオルガン)が参加して、だいぶウワ物を録り終わり、“Rainbow”というトラックをナッシュビルのジェリー・ダグラスに送ってラップスティールを入れてもらった、と。最後にオーケストラアレンジをフィオクナ・トレンチにやってもらって録音。夏の間にミキシイングなどを経て2010年の春に発売。 この発売時のアイリッシュのプレスはすごかった。HOT PRESSは、なんとCDレビューだけで2ページ! あんな大きな絶賛レビューは始めて見た! まぁ前作もアメリカ録音だったし、アイルランドからみたら地元録音で、地元ミュージシャンも多いし、ポールの自主レーベルつまりアイルランドのレーベルで「ポールが帰って来た!」って気分になったのかもしれない。 このCD、商品になる前からポールがCDRをくれたのだけど、私はずっと「来日がないと難しいと思う」と返事をしてきた。大好きなポールにそれを言うのは本当に辛かったけど。でも今回来日が決まって、ほんの数枚だけど輸入して、五十嵐正さんのライナーでご紹介することが出来るようになってホントに良かったと思う。 そうそうこのアルバムの中には、このリリースより前にコンピレーションに提供した“You Won't See Me”が入っている。あれはすっごくリラックスした名トラックだ。ポールの独特のこぶしが本当に気持ちいい。 ちなみにタイトルの「フーバドゥーバ」はポールの口ぐせ。TVのインタビューで「タイトルに意味はないよ。今までの僕のアルバムタイトルはなんだか大げさだったからさ…Sprits Collidingとか… これは僕の独特の言い回しで気分が良い時に言うフレーズなんだ」と答えていた。 というわけで、これは美しい。

オーケストラとの演奏で“One More Today”。うううう、いいよ…泣ける!!!

   

一昨日くらいからはずっとこのアルバムを聴いている。ホントにパワフルな作品だと思う。そのくせリラックスしている感じもとっても出ている。80年代のシャイニーな作品も素晴らしいが、円熟味ってやつですかね。とにかく曲がすべて良い。 そしてポールにしては珍しいカバー「You Won't See Me」は、以前『Rubber Folk』という『ラバー・ソウル』のトリビュートアルバムのために作られた作品だ。フォーク界の人気者たちがこのアルバムをそれぞれカバーするという企画なのだが、ジム・モレイが“Drive My Car”、カーラ・ディロンが“Wait”、そしてブーとエディが“What goes on”をやっていて、BBCのフォーク看板DJ、マイク・ハーディグがライナーノーツを書いている。素晴らしい作品だが、まぁ、死ぬほど良いというわけではなく、やっぱりもうポールのトラックだけが突出して素晴らしいと思う。そもそも企画ものだから、とってもチープに作られていて、そこがめちゃくちゃ良い。ポールのレイドバックした空気が伝わってくる。リズムセクション以外はポールがすべて演奏しているが、それもなんだかとっても楽しそうなのだ。後半ポールの声が何層も重なってくる所など鳥肌ものだ。このトラックいいなと思ってたから、ポールがアルバムに正式に入れられて、これである程広く聞いてもらえるから良かったと本当に思う。 

さて! そんなわけで、いよいよ明日からポールが来日します。チケットのお取置きも本日の夜で受付終了。あとは当日券がありますので、当日券をご利用ください。皆さん、ぜひご来場ください。 ほんとうにすごいヴォーカル。ほんとうにすごいギター。これが我がTHE MUSIC PLANTがお届け出来る、最高の音楽です! ぜひぜひ皆さん、ご来場ください。私はもう自分の音楽人生のすべてを、この最高の音楽にささげたいと思います。ぜひご来場ください。絶対に後悔はさせません。これが本当の「アイルランドの魂」だと思います。ま、これが分かんない人も「いいよ、もう」と思いますし、実際それでいいんです。

2012年2月27日月曜日

ポール・ブレイディ、金曜日にバラカン・モーニング出演決定!

ピーター・バラカンさんの朝の番組、インターFMの「バラカン・モーニング」に出演が決まりました。今度の金曜日、ポールの出演はだいたい9時半ごろの予定です。家にラジオがない人もインターネットで聞けますよ〜。

一応バラカンのラジオが終わったあと棚TVにも乗ってもらう予定ですが… 果たして大シュターの御大が本当にやってくれるのやら。ダブリンのバルコニーじゃ2回も歌っているので、こういうのは嫌いじゃないはずなのですが。

さて今日御大のFacebook Pageに載ったショッキングな写真をお借りしてきました。ウチのFacebook Pageでシェアしたら、友達から髪型より足下の方がやばいというコメントが…確かに。どうやらポールの解説によると何かペイントした後だったようですが(服のよごれも気になる)。それにしても時代ですなぁ。

Paul Brady facebook Page













それにしても御大は本当に棚TVをやってくれるのだろうか。一応マネジメントの許可はもらったものの… バルコニーでは2回やっているから、こういうの好きかもしれませんよね。祈っててください。Nothing But The Same Old Story....

かっこいいーーーーーーーーーーーーっっ!

映画「THE SHORE」



アカデミーとか、自分に関係ない芸能界の話は、まったく興味がない私ですが(これじゃいけないとは思うのだけど〜)、このアイルランド映画は面白そうです。今日アカデミー賞で、なんかの賞を取ったらしい。

北アイルランドの政治情勢のため引き裂かれた男友達の話。面白そうだと思われる点は「感動的で“めちゃくちゃ笑える”作品」となっているということ。これは楽しみ。

とかいって日本に来なかったりしてね。シネイドが主題歌歌った『アルバート・ノッブス』も来なさそうだしな。ま、その場合はDVD買うか。この公式ページのおっさんの写真もいい感じです。こういうの大好き!

ポール・ブレイディ来日までの道のり34:Say What You Feel

このアルバムの発売とほぼ同時期に、ポールはびっくりしたことに、マネジメントをアメリカのコンパス・レコードに移した。ちょっと意外だったなー。もちろんコンパスは私にとっては旧知の仲だったので(ルナサやシャロン・シャノンをリリースしている会社です)、全然問題なかったし、コンパス側も私のやり方とか熟知していたから、おかげで物事は私に有利にスムーズに運ぶようになったのだけど。とはいえ、この二組のタッグはあまり長くは続かなかった。私にしてみれば、双方の良いところも悪いところもよく分かっているつもりなので、長く続かないことは最初から分かっていたけど…。そうやってマネジメントは変わる。でも私はずっと一緒に仕事が出来ているから、マネージャーが誰だろうが、あまり関係ない。ポールとコンパスの関係は終わっちゃったが、私とポール、私とコンパスは今でもとっても仲良しだ。自分でも微妙ながら良い位置にいるなとは思う…という自慢話はさておき(笑)。ポールとコンパスだって喧嘩したわけではないと思う。ただ『Hooba Dooba』がアメリカ発売になっていないのを見るとちょっと残念にも思う。もっとも今やリリースなんてすべてアーティストが自分でやればいいのだ。流通さえ確保しちゃえば、レコード会社なんていらない、と言ったところか。

そんなわけで、このアルバムがリリースされた頃、コンパスのファウンダーであり、グラミーも取ったことがあるバンジョー奏者アリソン・ブラウンの旦那の、ギャリー・ウェストがポールのマネジメントを担当していた。現在はポールのマネージャーは、アイルランド音楽業界の古株ジョン・マニスが担当している。ジョンはどちらかというとロードマネージャーだし、PAエンジニアだし、PA(パーソナルアシスタント)だし、私はこっそり何でもこなしてしまう優秀な「執事」って思っているんだけど… いわゆる戦略を考えたりするようなビジネスマネージャーではない。だから今はポールが自分で自分をマネジメントししつつ、ジョンがそれを手伝っている感じなんだと思う。

ジョンはもうプランクシティからデ・ダナンなども面倒みてた人で、家族ぐるみでポールの仲良しだ。息子のダラはコローナズのスタッフもしていて、その周辺も含め、とにかくみんなで業界内、ほんとうに仲が良い。ダラは若いだけあって、コンピューターのガジェットにも詳しく、ポールはいつもダラにいろんな質問をして、いろんな事を教えてもらっているみたいだ。自分の息子のカルムは割とそういう事にものんびりしているし、娘のサラは超キャリアウーマンだけどロンドン在住だしね…(それにしても、ポールといい、チーフタンズのパディといい、自分でFacebookとか何でも精力的に好奇心一杯でやったりして、ホントにえらいと思う。ウチらの世代もくたびれている場合ではないわ、ホント)

で、そんなジョンは本当に面白い人で、昔のドーナル・ラニーの寝坊話とか、いつももうお腹がねじれるほど笑わせてくれるのだけど、そのジョンが言うにはアイリッシュミュージックの流れの中で一番すごいライヴバンドはボシーだったんだって。ふーん、ボシーかぁ。まぁ、ボシーはミホールが亡くなっているから再結成は無理だろうし、したところで昔のマジックはないだろうけどね。

と、まぁ、話はずれた。でもポールはものすごく頭もいいしマネジメントのセンスもあるから、こういう形が一番良いように思う。

いずれにせよコンパスもポールも両方知っている私からすれば、当時のコンパスとのマッチングは違和感があった。ギャリーはいい奴だがジョークのセンスがなかった。それははっきり言ってアイリッシュと仕事をするとき致命的な欠点だと思う。一方のジョンはそりゃもう明るくて前向きでジョークのセンスも超抜群なのだ。

でもこのアルバムはコンパスレコードと、ポールの、そんな蜜月期間に実った果実のような作品だった。このアルバムをナッシュビルでレコーディングしようと言ったのは、もちろんギャリーであり、レコーディングもコンパスの事務所の裏のスタジオで行われた。2003年の10月、ポールはとあるアワードのためにナッシュビルに飛び、そこでそのまま数日間留まってレコーディングをしたが、それが、そのままこの作品になったらしい。

どちらかというとピアノトリオみたいな感じのバックで全編綴られた作品だ。(ダニー・トンプソンのベースと、ジョン・バーのピアノが最高!)

とにかく1曲目がいい。“Smile” あと好きなのはボーナストラックの“Finally It's a right time”かしら。しかし今聴いていても、このアルバムは他の作品とサウンドがまったく違うね。リラックスしているというか、全体に優しい空気に溢れている。まぁ、上手いミュージシャン揃えてるから当然なんだけど、なんかとっても余裕が感じられるんだわ。

それにしても、このアルバムは日本でもよく頑張ってプロモーションしたなー。この頃になるとポールの日本での応援団も増えて、あちこちの媒体に載った。だからきちんと新作アルバムとして紹介された最初の作品だと思う。朝日新聞から音楽雑誌以外のメジャーな雑誌から何から何まで…。私はこのアルバムのリリースのためにわざわざ新しいレーベルを立ち上げて、メジャーな配給まで準備した(笑)。でも見事に売れなかったねぇ(笑) ま、でもいいんです。このアルバムは本当に私にとっては宝物みたいな作品だ。何せ日本盤で、ボーナストラック付きで日本プレスで出せたしね。もう記憶があやふやだけど、確か数週間、日本先行発売じゃなかったかしら。まぁ、そういうことが出来たのも長年のつきあいのコンパスレコードが相手だったからこそ、というのはある。ホント感謝だよなぁ。

ポールが自分のホームページのアルバム解説でも書いているとおり、ヴォーカルがすごく落ち着いていているんだよね。ポールいわく高めに歌った方がメッセージがより強く伝わる、と思いがちだけど、必ずしもそうではない、という事にこのアルバムのレコーディング中に気づいた、と話しています。



か〜っっっ! ホントにいいよね。これ。

そしてポールはこのアルバムをひっさげて、ケルティック・クリスマスのために日本にもう一度やってきてくれる事になるわけだ。その話はすでに「来日までの道のり」の6とか7とかに書いたので、それを読んでいただければと思う。

それにしてもこのアルバムは本当に思い出深い。『SONGBOOK』あたりから、私はアメリカやイギリスにほぼ定期的にポールをおっかけて行くようになったのだけど、その頃の濃ゆいエピソードはたくさんある。

もう何年のことだか忘れたが、たぶんこのアルバムが出る前か、出た後か…私は1週間みっちりポールのおっかけをすべくアメリカに飛んだ。ニューヨークでの事だ。ポールは結構朝から機嫌が悪かった。コンサートがあって、公演はすごく良かったんだけど、ポール本人はオーディエンスからリクエストが飛んだことに辟易していた。この日のお客さん、ものすごいパワーで、楽屋に突進してきたり、楽屋とステージの脇を出入りしている私までもが捕まって、なんとかポールに会わせてくれないかとかみつかれたり…とにかくものすごかったのだ。私まで黒人のゴッツいセキュリティに守られたりしながら、いや〜な予感もしたが、でもパフォーマンスは本当に素晴らしく感動的なものだった。でも終演後ポールはすっかりへそをまげて楽屋にとじこもってしまった。

こういうのは何度か見たことがある。いつだったかサンフランシスコの小屋でも同じだった。ポールはライブの出来が本人が気に入らないと、もうすごく激しく落ちこんでしまうのだ。(でも出来が悪いことなんて、ホントないんですよ! ちょっと信じられないんだけど)

公演が終わるとマネージャーのジョンが私に「しばらくほおっておいた方がいい」とこっそり声をかけてくれたので、私はポールの楽屋には近寄らずスタッフ楽屋で本を読みながら時間をつぶしていた。ジョンは会場の人との精算や、後片付けなどで忙しくしていたが、そのうちこの小屋がいわゆる1日中開けてるタイプの小屋(アメリカでは1日5回まわしとかすごい小屋がある!)で、ポールはメインの素敵な楽屋にいたのだけど、そちらに次の回のアーティストが入るため、私がいるスタッフ楽屋の方へ追い出されてきた。スタッフ楽屋は割と広くて私は隅っこにいたのだけど、ポールはむっとしながら入ってきた。ポールがあまりに落ち込んでいるので「ポール、今日のコンサート素晴らしかった。お客さんも喜んでたじゃない」と声をかけたらポールは「お前に何が分かるっていうんだ。1000人のお客の前で歌ってみろ、お前にも分かるから」と怒った。私はなんてひどい事を言うんだろと思い、多いに傷ついたが、しかたない。

今思えば、あんな地下の楽屋に長くいたのも良くなかったね。でも外に出るとファンの人が殺到してきそうだったから、それがポールはイヤだったみたいだ。だから1時間、下手すれば2時間くらい、そこに居ただろうか…。もうジョンの用事も住んだし、次のバンドが来るからスタッフ楽屋にも居られなくなり、やっとホテルに戻ろうということになった。ジョンが表に走って行って誰もいないことを確認してきた。そんな感じでやっと外に出たら「空気が新鮮!」って気分だったし、ネオンがきれいで、それを見てポールはちょっとだけニコっとした。すこしホッ。タクシーを拾うのにしばらくかかったが、なんとかタクシー拾い、私はギター2台をかかえてジョンは即売のCDをかかえてタクシーに乗り込んだ。ポールは運ちゃんの隣に座った。タクシーの運ちゃんが「後ろの楽器はチェロか? どんな音楽をやっているんだ?」とポールに聞いた。そしたら、ポールは「ロックシュターなんだ」と言った。私は心の中で爆笑したが、まだまだ笑える空気ではなかったでお腹の中で笑うだけにしておいた。

ホテルに到着するとジョンが私に気遣ってくれたのか、もしくはこの気分のままベットに入るのもよくないと思ったのか、<ヨーコは今日で最後なんだし、気分を変えるのにパブで飲もう>と言ってくれた。でもポールはまだまだ不機嫌だったから、部屋でメールチェックしてからにする、とか言ってワガママ爺さんみたいにして部屋に戻っていった。ジョンが私に耳打ちして「パブに出ることになったら部屋に電話するから」と言ってくれた。

この日のホテルはニューヨークで普通に取ると500ドル以上の部屋だったが、ロックシュターレートで250ドルくらい。それでもかなり高い。部屋はかなり広くベットも大きかった。ベットに靴はいたまま寝転んで、まったくポールってほんとにひどい奴だと私はちょっと怒っていた。何もあんな言い方することないのに。なにも自分を私のレベルに落とさなくてもいいだろうよ、温厚な(笑)私もかなりムっとしていた。ジョンの電話はなかなかかかってこない。結構時間がかかったので、私はもう自分のフライトで明日日本に帰るし、いやな別れ方だけど、わざわざサヨナラ言うためだけにポールの部屋をノックするのもなぁ、もういいや、メールでも後から入れておけば…と思っていたら、ジョンから電話が来てバーに出るという。バーは本当にホテルから1ブロックみたいな場所で、ポールにとっては行きつけの場所らしかった。3人で窓際のテーブル&スツールに座って飲み初めると、ポールは自分のニューヨークでの思い出を語り始めた。ジョンストンズ時代うんぬんもそうだけど、『Trick or Treat』のプロモーションのときもこの街に結構長く滞在していたんだって。

そしてまぁかなり空気がなごみつつ3人で結構飲んで、ポールの機嫌もなおったみたいだった。良かった、良かった。

そして…極めつけが、ホテルに3人で歩いて戻る途中ポールがボソっと言った一言。「今日のコンサート…悪くなかったよな」だって!!! ジョンと私は深夜のニューヨークの路上でもう爆弾が落ちたみたいに大爆笑した。もう我慢が出来なかった。ジョンなんて道に倒れこんでいたかもしれない。ポールも大爆笑してた。

いいでしょ!? ポールってホントウにいいんです! なんか本当にいいんですよ。こういうところが。私だったら、まぁ最後まで気取って機嫌がなおったとしても、その日の夜は一応不機嫌なふりを通しちゃうかな。でもやっぱりジョンと私に悪かったな、って思ったんでしょうかね。私はこういうポールが、可愛くて可愛くて仕方が無い。ホントにポールって、そういうところがめちゃくちゃスイートでピュアだと思う。

というか、一般的に言って、人間はウソがないものが大好きなのだ。だからペットを飼う。だから子供は可愛いって、誰もが言うでしょう? 時々犬や子供は残酷にもなり、年がら年中いい子でスイートじゃない。でもその行動、感情表現には絶対にウソがない。だからみんな犬や子供が大好きだ。それと一緒。どんなにイヤな奴だったとしても。それが本当でピュアで、ウソがなかったら、やっぱり、その人は愛されるんです。ポールって本当にすごく魅力的な人だと思う。まぁ、もっとも、こういう性格じゃなかったら、あんなに人の心に寄り添うような曲は書けてないよね、きっと。

と、まぁ、私の視点からあの夜のことをレポートするとこんな感じになるわけだけど、実際ポールの気持ちたるや、どんな感じなのかな、と思う。結構タフな2週間くらいに及ぶ東海岸ツアー。田舎の公演が多かったから、ニューヨークでの公演は楽しみにしてたんだと思う。そこで自分が気に入る公演が出来なかった時の気持ち。そりゃあ落ち込むかもね。まぁ、でもそういうのはポールの言うとおり分からないわよね、私には(笑)。

ポールみたいな人をみていると、つくづく自分は凡人で特定の才能に恵まれていないことにホッとする。実際そんなポールに対して、あまり感情移入して同情したところで私にもポールにも何のメリットもないんだし、とにかくポールをサポートするにはどうしたら良いか具体的に考えてベストをつくすしかない、それだけなんだよね。スタッフとしてやれることは本当に限られている。ドライに…と言ってしまうと冷たいようだけど、一緒にメソメソしていたら身体がいくらあってももたないんだわ。

一方ものすごくスイートな思い出もある。書いていると、次々思い出すなー。もっとも本当にすごい事は、やっぱり自分の中にだけしまっておくか、友達と飲んだ時にグチるか、それこそポールが引退した後でしか公表できない。あまりにここに情報を載せる事で、お客さんがこれがすべてかと思ってしまうのも困る。もっとも、ちょっと想像力が働く人ならば、すぐ分かってもらえるとは思うのだけど。ここに書いているのは、割とソフトな、ホンノ一部です、と(笑)

この時のツアーの最初の合流地はアメリカのコネチカットのIron Horseという割とアコースティック音楽では有名なライブハウスだった。私はニューヨークだかシカゴだか経由でコネチカットの空港に降り立ち、そのまま速攻でホテルでシャワーを浴びると会場まですっ飛んで行った。そして公演が終わるまでポールに見つからないように後ろの方で見てた。もちろんジョンには私がツアーに合流することは伝え済み。私はジョンから必要な情報をもらい自分でポールと同じホテルなどをばっちり手配済みだ。ジョンはポールを驚かすのが楽しかったらしく私が到着すると、ポールの友達テーブルだという皆さんのところに連れて行ってくれた。そしてそのテーブルに来ては「お前が来ることは内緒にしているから、すごく喜ぶぞ」と何度も言ってくれた。ありがとう。ジョン。ま、でもジョンはツアマネからPAからドライバーから全部一人でこなし本当に大変なんだよね(そうそう、時々やるのだが、このツアーでは私はCDの即売をやった会場もあった。お客さんはなぜ東洋人がCDを売っているのか不思議に思っただろう)。なにせ男二人のツアーなんで、煮詰まることもたくさんあると思う。もちろんポールもバンドを連れて、スタッフも大勢つれてのツアーをすることもあるが、この時のツアーはたった二人だった。

で、その日の素晴らしい公演が終わって、私はポールがみんなにサインをしたりしてあげたりしているのを遠くで眺めていたが、それが一通り終わったころ、ジョンが私を連れて、じゃーん!とか言ってポールを私を見せると、ポールはもう飛び上がらんばかりにびっくりしてくれて「What!  What!  What!」とすごく喜んでくれた。そして、すっごく嬉しそうに、お友達みんなに私を紹介してくれたのだが、お友達たちはすでに私は交流済みだ。知らないのは俺だけか!と悔しそうに地団駄を踏むポール。あぁいうところ、ホントにチャーミングだと思う。

その日の深夜、一緒にいったバーのカウンターでは、ずっとローリングストーンズがかかっていて、ポールは「いいな〜」と言いながら私の隣で嬉しそうに聞いていた。私が「私はビートルズのファンで、ビートルズはほぼすべて聞いているけど、ストーンズは1枚も持ってないしたぶん数えても4曲くらいしか知らないと思う」とか言ったら、ポールはあきれて、本当の健全な音楽ファンなら両方同じくらい好きなのが当然だ、としっかり説教された。で、さんざん酔っぱらってご機嫌になったポールは、私の肩に自分の頭を乗せながら一緒にずっとBGMにあわせて歌い始めた。自分の肩を通じてポールの歌声が直接自分の内側に伝わってきて、その歌声を聞きながら、私はものすごく幸せだった。

このアルバムを聴くと、今でもあの極寒アメリカ東海岸ツアーを思い出す。雪がふって、きっと-20度くらいだったんじゃないかと思う。途中アルタンの連中とも2晩くらい一緒になり、マレートとダーモットの娘のニーアにも初めて会った。ニーアに雪だるまを作ってあげようとしたのだけど、雪がサラサラでまとまらなかったから、それは無理だった。

2012年2月26日日曜日

ポール、1年くらい前のインタビューより

ポールが『Hooba Dooba』のリリース時に、Irish Mailという新聞にスペシャルCDの付録をプロモーションとして付けたのですが、それにともない同紙にインタビューが掲載されたので、私のつたない訳でお楽しみください。

このインタビュー、ポールのHPにも英文が上がっているので、英語が分かる人はオリジナルを読むべきだと思います〜。

 さてさてその前に… アイルランド音楽業界のイヤな野郎3名というのがあったんですよ。というか、今でも充分あるんですけど。そのうちの二人がポール・ブレイディとヴァン・モリソン(あと1名は自粛)なわけなのですが、この記事もそんな話から始まります。


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ポールが気難しいという評判は、彼の音楽的な成功より前提として存在していた。だから彼の南ダブリンの自宅を訪ねた時、ポールの、おしゃべり好きな空気は驚きでもあり、僕は心底ホッとした。

もちろんポールに、影がないわけではない。ポールは最近亡くなったお母さんモリーとの人間関係には苦悩した、と告白している。ポールの分析によると、たぶん彼女はポールの父以外の人と結婚したかったと感じていたのではないかという。彼女が生きている間、それはポールには分からなかった。これは自分のことを話すことについては、慎重である有名人において、本当に見事な洞察である。今では、ポールは自分が何者であるかということについて、やっと居心地のいい場所を見つけたのだ、という。この歴史的にも偉大なシンガーソングライターに実際にインタビューし、それは本当だと言うことが分かった。 

彼は自宅の脇にたてられたスタジオに座った。僕は彼のことを非常に魅力的で、謙虚で、そしてとってもユーモアのセンスがある人だということに感動した。そして徐々に、彼がとってもオープンな人だということも分かっていった。 

「自分が引っ込み思案で難しい奴だとメディアに思われているのについては、ほんとうに残念に思っているんだ」「ポップスの世界ではみんなそうだったのかも。ちょっと変わっているのがいいとされたのかもしれない」 「それは真剣に取り上げるほどの事じゃない。僕は僕の仕事については非常に真剣だが、それは僕が横柄でいやな奴だという意味ではないよ。僕は今の自分自身をとても気に入っているし」 

でも自分自身が現在の心境までたどり着くまでの間、それはとても長く難しい道だったとポールは言う。

「僕が20代のころ、僕は感情的な霧の中にいた。僕が気にするのは音楽のことだけだった。女の子には興味なかったし音楽以外の興味なんてなかったよ。すごく内向きで、それは自分自身に対しても同様だった。30になって、やっと開いてきたかなぁという感じだった。で、やっと結婚して物事は少しずつリアルになっていった。家庭を持ち、家のローンにおわれ、子供が生まれ、まったく新しい世界さ。いろんな経験が僕をこういう人間にしていったのさ」

今、63(ちなみに現在は64。今度の五月でになります)のポールはタイローン(北アイルランド人はティローンという)州のストラバーンに生まれ、寄宿者学校でのひどいいじめにより内側にこもるようになった。

「自分なりの作戦を考えたのさ」「寮にいた時、それが自分を守る唯一の方法だった。学校を離れたあとも、内にこもる性格は僕の中に留まったのかもしれない。本当にとある人物からひどいいじめを受けたんだよ。精神的な拷問だった。僕の人間としての自信はどんどん浸食されていった。でもこのいじめを行っていた人物は僕の音楽の才能に魅了されていたとも言える。いつも僕は彼のために歌うように脅されていた。<大好きだけど、殺すかもよ>みたいな感覚だろうか 大変なストレスだった」「寮に入る前、音楽は僕の一番の友達だったのに、学校にギターを持って行く事すら許されなかったんだから。11から16になるまで僕は学校が休みの時しかギターにさわれなかった。音楽は、僕にとって嘘をつかない、まったく別の世界だった」

ポールは両親と同じように学校の先生になるべくUSD大学へと進む。でもポールはローカルなバンドと音楽を演奏するという人生のギャンブルに出る。ファイナル試験に落ちて、大学を卒業することはできなかった。

「でも僕はいい先生にはなりえなかったと思うよ」と彼は主張する。「先生になるには忍耐力が必要だ。僕の父も学校の先生だったけど、教えるのは好きじゃなかったと思う。他の世代に生きていたら、たぶんプロフェッショナルなアーティストになっていたんじゃないかな。でも教師は手堅い仕事だったんだよね。父はとっても素晴らしい才能に恵まれていたし、とても愛すべきキャラクターだった。すごく気楽な人で、それがもしかしたら母にはあわなかったのかもしれない。たぶん母は、父とは違う別の人と結婚すべきだったと後悔していたんではないかと思う。母の人生はあまり幸せなものではなかった。彼女に起こった出来事というよりは、彼女の理想と現実との大きなギャップを考えるとね。だいたいの人は現実と折り合いを付けてどうやって生きていくか学ぶものだけれどね」

ポールは自分の自伝的な曲を書こうと20年とりかかっていた。「母と子 Mother and Son」という歌だ。それがやっとお母さんが亡くなって完成したのだという。この曲は新作『Hooba Dooba』に収録されていて、音楽評論家たちはこの曲がポールの最高傑作の一つだと絶賛する。

 「彼女が生きている時は語れなかったことだ。もし彼女が聞いていやだと思うことを話すのはイヤだからね。僕と母は簡単な人間関係じゃなかった。分析するに僕らはきっとお互いに似すぎていたんだろう。間違った方法で常に摩擦を起こしてきた。彼女は孤独な人だった。それが子供だった僕を非常にイラつかれたし、僕は風船を割りたくてしょうがなかった。彼女が彼女であることにとても腹をたてていたんだ。彼女が亡くなって1、2年してやっと彼女の気持ちがわかるようになった」

ポールは付け加える。「彼女が亡くなる2,3年前は彼女は自分を引っ込めてしまった。それが僕が歌の中で言っていることなのさ。彼女は介護施設にいたんだが、会いに行っても僕のことがよくわからないようだった」

お母さんは、息子の成功についてはとても喜んでいるようだったが、よくポールのことを同時期のアーティストと比べていたようだ。

「そうだね、彼女は僕のことを誇りに思っていてくれたと思う。だけど、僕のところに来て、ポール、エルトン・ジョンはあなたより上手いピアノ奏者なのかしら、とか、クリス・デ・バーはあなたより上手いソングライターなのかしら、とか言うんだ(笑)」「彼女はエルトン・ジョンが世界的なスーパースターだと考えていて、彼女の息子はそうじゃないという状況を分っていた。たぶん頭の中で、なぜなんだろう、エルトン・ジョンの方がピアノが上手いのかしら、と思ったんだろうね。でも彼女はそうは僕に言わなかった」

大学を退学すると、ジョンストンズよりも前にいくつものバンドを渡りあるいた。だが、彼の名前を有名にしたのは、クリスティ・ムーアと交代で、74年にとても影響力のあるバンド、プラクシティに参加したときだ。

「なぜクリスティがバンドを抜けたのか分からない。でもそれは僕にとっては良い事だった。アメリカから帰国して物事が上手くいかないだろう時に、もっとも有名なグループに誘われたんだんだ。そして皆が注目してくれた」もちろんそれは簡単なものではなかった。「1年半、プランクシティに居た。音楽的には素晴らしかったのだけど、ビジネス的にはとてもイライラさせられた」「とにかく大混乱だった。完全にグチャグチャ。マネジメントはないも同然だ。解散の理由はいくつもあるが、 とにかく最初の数年バンドは税金を払っていなかったから、僕は在籍してまもないのに税金をたくさん払わされ…とにかく何かがなされるべきだったのに、きちんとしていなかった」

2003年のプランクシティの再結成について:「再結成が行われることすらも新聞で知ったくらいだよ。再結成に加われなくて残念とは思わなかったけど、ちょっと失礼だよね。誰かが事前に僕に知らせてくれても良かったのに。“再結成するけどお前は入ってないよ”と。そしたら納得するのにさ」

75年のバンドの解散のあと、アンディ・アーヴァインとポールはプランクシティの元メンバーたちと録音し、それはとても高く評価された。そして『Welcome Here Kind Stranger』は最近になってCDとしてリイシューされている。 ポールの次なる動きは顕著だった。フォークシーンを離れ、ロック&ポップスの世界へと進んだのだ。ボブ・ディランがエレクトリック・サウンドになったのと同じような世間のリアクションだった。

「確かにメディアは多少脚色してたよね。確かにボブ・ディランのケースと似ているかもしれない」

ヴァン・モリソンはポールを避難した。ブルース・スプリングスティーンやボブ・シーガーと引き合いにだし、この3名を「猿ども」と表現したのだ。ヴァンは「自分のやっていることを真似する奴ら」と表現することに躊躇しなかった。

ポールの説明。「ちょっとパラノイアだよね。ヴァン・モリソンと僕に遠く離れた共通項があるとすれば、リズム&ブルースが僕ら二人とも大好きだという偶然の一致だね。そして僕ら二人ともそのスタイルの歌い方だ。ヴァンを批判したことはないよ。ヴァンは素晴らしいアーティストだ。ただ時々もう少し幸せでいてくれればいいのに、と思った事はあるんだ。分かるだろ? 実はヴァンは僕にアプローチしてきた事もある。実は一緒に曲を書こうとしていた時期があった。でもそれは成功しなかった。でもそうやって僕のことをそれなりに認めているのさ」

ヴァンは謝罪したのか?「いや。たぶん彼はそんな事を言ったことすら覚えてもいないよ! まぁ、実際彼のことはよく知らないんだよ。人が言うには、ヴァンは自分について書かれたすべてをチェックしているらしいけど。ヴァンがリズム&ブルースを発見したわけじゃないだろう。それだけさ」とポールは笑った。

40年のキャリアにおいて、彼は12枚以上のソロアルバムをリリースした。ポールのヒットシングル“Crazy Dreams”などは今でもアイルランド人が面と向かっている海外で働くという事についてふれている。

「あの曲に思い入れがある人が多いみたいだ。またこうして移民する人が増えるにつれて、また人の気持ちに寄り添っていくんじゃないかな。家に帰ってくる時の気持ちとか、そういう事さ。コンサートでももっとも人気のある曲の一つだ。イントロが始まっただけでお客はすぐ騒ぎだす」70年代のランドンに住むアイルランド人の苦悩を表現している。僕がジョンストンズと一緒に69年から73年の間、のトラブルが激化していた。アイルランド人というだけで怪しまれた。アイルランド訛りがあると、危険人物とすぐに思われたんだね」

「本当にロンドンのアイルランド人にとってはつらい時期だった。本当に偏見だったよ。犬とアイルランド人はお断りみたいな50年代ほどはひどくないけど、それでもアイルランド人は蔑まれていた。60年代の後半から70年代にかけてロンドンは居心地が悪かった。ほんとにテロリストか、芸術家なのかなんて区別がつかなかったのさ」

ローナン・キーティングと一緒に書いた“The Long Good Bye”も名曲だ。二人はまたポールの最新作『Hooba Dooba』の“The Price of Fame”という歌で共作している。このボーイゾーンのシンガーと、ダンサーのFancine Cornellについて。「本当に可哀想に思っている。でもそういう世界に生きているって事なんだよね。ローナンは有名人だから。僕は僕自身のことを有名だとは思っていないけど。でもこういう名声というのはパパラッチの名声なんだよ」

また“Nobody Knows”は、エルヴィスの悲劇的な死をとりあげ名声における暗い部分の話を歌っている。


「音楽ビジネスはとても誘惑的なビジネスだ。オペレートしていく上で行き詰まることはとても多い。成功/名声のゲームに陥るのさ。エルビスは神のようだった。彼は美しく、セクシーで、才能もあったし、世界規模の成功も得た。想像しうるすべてを手にいれて、好きな女を選ぶこともできた。で、どうしたかって? トイレに座ったまま死んだのさ」


ポールは自分が素晴らしい音楽のキャリアと、プライベートな充実した普通の生活を両方手にしたことをすごく喜んでいる。


曲“The World is What You Make It”について


「あの曲で言いたかったのは、ほんとに自分に努力し、そのことによって自分が達成したい世界を作ることができると言いたかったんだ。本当にそうだよ」とポールは付け加えた。このような素晴らしい前向きの精神。ポールが横柄で難しい奴だという評判がたつのが信じられない。


2011年1月のIrish Mailのインタビューにて
(日曜版で、ポールのベストセレクションCDが付録となった) 


Later with Joolsより。かっこいい〜♥

ポール・ブレイディ来日までの道のり33:The Paul Brady Song Book

先の投稿にも書いた1ケ月にも渡る公演に続くように、ポール・ブレイディの歌で綴るドキュメンタリーがRTE(アイルランド国営放送)で放送になった。30分の6回シリーズ。

CDも素晴らしいが、とにかく番組が素晴らしいので、ぜひDVDで買ってほしい。CDの方は松山晋也さんのものすごいテンションのインタビューがライナーになっているので、それはそれで必読なのだけど。

DVDの方は茂木健さんが訳をライナーにしてくれたので、インタビュー部分も充分楽しめる。ってういか、このDVD見るだけでもだいぶこのブログ用のネタも拾えるんだよね… ポールは資料が膨大だわ…

確か1回目の放送は、私がポールのコンサートをみにベルファーストに行った時で、バンドのみんなとベルファーストのホテルで放送だか、数日前に放送された映像だかを見た記憶がある。“Dancers in the fire”をポールが演奏するのを見て「まだこの曲やるんだ!」と思ったのが記憶にあるので第1回目だとはっきり分かるのだけど。

しかしここでもそこここに「気難しい奴」というレピュテイションが出てくるね。サウンドチェックで音に対して要求がものすごいこととか、リクエストが飛んでムッとするところとか。皆さん、お願いだからライブが始まったら、絶対にリクエストは飛ばさないように! 飛ばす場合は紙に書いて私に事前に手渡してください。ポールいわく「一緒に来ている友達かなにかに自分は曲をいっぱいしっていることを自慢したいのだろうか、リクエストを叫ぶ奴がいる。僕は僕のやるべきことをやらせてもらいたいのにさ。これって贅沢すぎる要求?」みたいな事をインタビューで言っている。まぁ、そういうポールの話もたくさん聞けます。それにしても……うっ、サウンドチェックの厳しい恐いシーンとか、映像で見てしまった…ホント胃が痛い。

そういえば、これからアメリカに行くというポールとダブリンで飲んだことがある。ポールはマネージャーのジョンに「Let's stop being.... reasonable」と言った。私は「ひ〜ッッ〜」と心の中で思い、アメリカのプロモーターさんに激しく同情したのでした…うううう。恐くて訳せない。恐いよー、プレッシャー、プレッシャー、プレッシャー、プレッシャー……まぁ、このプレッシャーを楽しんでいるんですけどね。

それは置いておいて、このDVDで良いのはバンド演奏かなー。もちろんドーナルやアンディと一緒にやってる伝統曲もいいけど、70年代みたいなヴィヴィドなケミストリーはもうないかも。ちょっとポールも神経質そうに歌っているし。とはいえ素晴らしいですけどね…。反対にブラスセクションの入ったバンドはすごくいいし、今の旬な感じだ。ポールのソロ演奏も本当に素晴らしい。っていうか、ここに入っているライブならではのポールの声がとにかくどのトラックを聞いても最高に素晴らしいし、最高にパワフルだと思う。そうなんですよ…ポールはライブが最高にかっこいいんですよ…

そして、なんといっても、最高に良いのがメアリー・ブラックとのデュエット。“I will be there”は必見です。あと、やっぱりなんといってもインタビューがいいね。ポールの話がすごくいい。インタビュー映像も、ポールがすごくリラックスしている感じがする。なんか、こう、いいんだよね〜。ポールの素顔が、満喫できるファン必見のDVDと言えるでしょう。うん。絶対に見るべし。

2012年2月25日土曜日

The Long Good Bye

そういえば“The Long Goodbye”には、こんな素敵なネタがあったのでした。人気音楽コラムニストのBob Lefsetzさんがポールの事をブログに書いて、それをポールが気付き返事を書いたのです。詳しくはここ。簡単ですが、とりあえず急いで訳しました。間違いなど指摘Welcome。すみません、時間がないので、あまりゆっくり訳してられません(笑)

まずBobさんがポールの“The Long Good Bye”について、こんな風に書いたことから始まります。このボブさん、アメリカの音楽についての超人気ブロガーで、そのポストは25万人に読まれているんだそうです。すごい。


Bob Lefsetzさんの投稿 ---------------------------------

タイトル:The Long Good Bye

これはNo.1レコードだ。

"I know they say if you love somebody
You should set them free (so they say) "

それが真実じゃなかったら、どんなにいいかと思わないかい? 自分だけは違うと思いたくないか? でもそうじゃない。これは真実なんだ。スティングも、そんなような歌を歌ったけど、彼の曲の調子はどちらかというと彼は自由になりたがっている方であるか、もしくは人に助言を与えてるようにも聞こえる。そうやって友達がしゃべればしゃべるほど、友達があなたを元気づけようとすればするほど、あなたは孤独を感じるし、友達は自分のことをまったく理解していないと思う。

愛って面白い。誰にも起こることなのに、自分の愛は唯一無二のユニークなものだ。初恋で結婚する人もいるかもしれないけど、それはレアだ。だいたいはハートブレイクを何度も経験し、最悪のローラコスターを何度も体験する。

iPodをシャッフルしていたら、たまたまポール・ブレイディの“Can't Stop Wanting You”がかかった。

"Hot words on a summer night
You'n' me having a fight
One drink and it all come out
Before I knew what we were fightin' about"

(喧嘩をする恋人たち、でも)結局最後に彼等は再び愛し合い、なんとかなる。ポールが彼女をほしがることを辞められない、と歌うからさ。でもこういうシチュエーションって誰にでもおこることだよね。楽しんでいたら、それが喧嘩となりたとえばちょとした言葉のあやがきっかけで大喧嘩になる。"Can't stop wanting you"は、ポールのヒットアルバム『Trick or Treat』からのトラックだ。それはヒットになっただけでなく、彼のちょっとしたスターダムを形成した。ゲイリー・カッツにプロデュースされ、ボニー・レイットはタイトルトラックをデュエットした。

ポールの音楽に出会ったのは、ボニー・レイットのアルバムでカバーを聞いてからだ。ポールの“Luck of Draw”は、ハリウッドでの苦悩について書かれた、今まで書かれた事のない歌だった。成功しようと努力することが僕らを生存させる理由であるが、ほとんどの人々は成功には至らない。

“Can't Stop Wanting You”を聞いてから、ポールのトラックを全部聞くことにして、そして“The Long Good Bye”を見つけた。

"And I know they say if they don't come back again
Then it's meant to be (so they say)
But those words don't pull me through
Cause I'm still love with you"

別れというのは決して共通のものではない。どちらの側にいたとしても、どちらかが、必ず「より欲しがる」。別れに際して話し合いが持たれることもあるかもしれない。でも大抵はどちらかがパラシュートのコードを引き抜くとき、もう一人は留まりたがる。そしてその場所に執着する。

分かれてからまたよりを戻す人もいる。でもそれは例外だ。人々はより良い人生を夢みて、より優れたパートナーを思い描き、古い愛については放棄してしまう。でもだいたいは彼らは相手に立ち去る準備が完全に整わない限り言い出しはしない。残された者はショックに驚き、嘆き、今はもう存在しない何かに思い焦がれる。

ヒットソングを書ける人はごく一部だ。チャートをかけあがる曲もあるだろう。ヒットパレードのトップに行きつく事も。でも歌の統計が1位だということを示していてだけで、真のヒットではない。ヒット曲というのはあなたの頭を振り向かせ、気づかせ、そして貴方はそれを買わずにはいられない。
“The Long Goodbye”を見つけてからというものの、それを止めることができなくなった。僕の脳みその中にそれは1日中とどまった。僕は人生の動きを通りぬけようとしている時期だった。僕はこの時期、この歌とともに僕のとても個人的な宇宙に居たと言っていい。

失恋したときは映画を観ると気分がなごむというのは言えるかもしれないが、こういう時、効果的なのは歌でしかない。それは永遠に変わらないだろう。これらの歌は馬の手綱を引くものではない。それらは孤独と寂しい気持ちを持つものかもしれない。それはまるであなたが宇宙服の内側で聞いているみたいに “The Long Good Bye”みたいに共鳴する歌を僕らは絶対に忘れない。

"Come on baby it's over... let's face it
All that happening here is a log goodbye"

これで一発でやられちまう。それはまぎれも無い事実だ。それは友達から言われても容認出来ない事実なのだが、歌が伝えると認めてしまう。

PS
山の間に、僕は自分の作品を歌いたいと主張するマライア・キャリーみたいな女性のシンガーが高らかに“The Long Goodbye”を歌っているような姿を想像した。彼女の最大のヒットの一つはバッドフィンガーの“Without You”だ。それはニルソンによって、12年も前に歌われていたヒットでもある。

素晴らしい歌は年をとらない。すべての世代に対してヒットとなりうる。ポールのアレンジも完璧だ。イントロの眠くなるようなピアノの音、ストリングス、それは完璧な青写真だ。この曲は2011年のブルックス&ダンのカントリーチャートのNO1になった。ほら、見ろ。僕はこれがNo1ヒットだと言っただろう! でもリサーチを始める前に気づいた、トップ40はこの曲をラジオでかけない。でもアダルトコンテンポラリーのチャートに半年も留まった。この曲がそれだけ強いということだ。ジャスティン・ビーバーやウィロウ・スミスが理解しないであろう何かに、失恋の意味を見つけるのだが、残りの僕らはよく分かっているのだ。ポール・ブレイディの“The Long Goodbye”みたいな曲以外に、僕らがこの苦労を乗り越えるのに助けてくれる物はないと。



これについてのポールの返事 -----------------------------

“The Long Goodbye”についてはありがとう。レコード/ラジオのビジネスにおいてこの曲がたどったのは奇妙な道のりだった。(大ヒットとなった)ブルックス&ダンにおいても最初のシングルじゃなかった。確か4枚目か5枚目のシングルカットだったよ。レコード会社はそれをリリースするのをいやがった。でもアルバムから本当に頻繁にかけられていたので、ついにシングル・カットすることにしたのさ。そして1位になるのに19週くらいかかった。

共作したローナン・キーティングの英国での動きも似たようなもんだ。だいたいアルバムに入れるのさえも嫌がられた。そしてラジオに送るのさえも嫌がられた。が、アルバムから4枚目のシングルになり、そしてそれが英国のチャートの5位になり、ヨーロッパでのチャートアクションも素晴らしかったのさ。僕のヴァージョンは2000年に最初に出て、BBCのラジオ2のAリストに5週間とどまった。そういうわけで、この曲はA&Rの連中の無能さにやられる事もなく、人々に受け入れられたのさ。

ファンの人たちからの反応は素晴らしかった。このいわゆる典型的な「失恋」という読み方以外にも、この曲がラジオでかかっているというときに、とある女性がイギリスから連絡をくれたのだが、彼女が言うには、彼女と旦那さんとの間に新しく生まれた赤ん坊が、生死をわけるような病気と戦っていてね。赤ちゃんがなくなる3、4週間の間、ずっとこの曲を聴いていたっていうんだ。彼等にとってこの曲の意味は大きかった。この曲は二人に大きな安らぎを与えたんだね。他にもとある男性で、アルツハイマーで現実との区別がはっきりしなくなってくる様子を想像した人がいた。

こういう事が、僕が歌において素晴らしいと思うところなんだ。作者は何かを歌にする。それに何か意味を与えたと作者は思う。でもそれは、作者を通り過ぎて行っているにすぎないんだよ。

僕の『Trick or Treat』が大展開だったって!? 痛っっ! いや、あれは噂にもなりやしなかった、と言えるだろう。ニューヨークのソーホーでアルバムのために、レコード会社の重役たちの目の前で、かなり内容の良いショーケースをやった後、ゲイリー・カッツと一緒に食事にいったんだが、まだ興奮状態の僕に、ブルックリン訛りの彼は言ったね。「良い事を教えてやろう、ポーリー。彼等はまだ君をレースに加えるか迷っているよ」と。ほーほー! 彼は正しかった。1週間か2週間して、僕のマーキュリーでの指示者であるマイク・ボンは左遷され、それがこのアルバムの死を決定的なものとした。

まぁ、でもそれも昔のことだ。今、現在において人生は本当に素晴らしいよ。さっきも言ったように僕はイタリアのサンレモにいて、明日イタリアのもっとも栄誉あるソングライターに贈られる賞を受け取るんだ。歌は素晴らしい。あの曲を書いてから11年たったというのに、君がそれを発見してくれて、素晴らしいと言ってくれる。本当に自分に与えられた才能に感謝しないといけないと思う」

ポール・ブレイディ


ポール・ブレイディ来日までの道のり32:The Missing Liberty Tapes

というわけで、『The Missing Liberty Tapes』である。このヘンになると私もポールの活動の隅っこに具体的にいさせてもらえるようになった。夢がかなったと言っていいのかも。ポールとの最初のビジネスミーティングは緊張した。今でもすごくよく覚えている。緊張の初ミーティングについては、ここに既に書いた。

とにかくファンとしてではなく、初めてポールと会うのだから超緊張した。こういう仕事をしていると大抵のビックスターに会っても緊張などしないもんだが、そのスターと具体的な仕事をするチャンスが目の前、となるとやはりまったく違う。

ダブリンのミーティングの後、東京に戻ってメールを何度かやりとりしたが、交渉は結構難航した。こういってはなんだが、ポールは初めて自分たちだけでこのアルバムを作ったから輸出とか流通とかの事をよく理解していなかったと思うし、実際ポールは自分でも「I'm still learning」と言っていた。当時はメジャーからインディーズにミュージシャンが流れて行く過渡期でもあった。おそらくポールとポールのマネージャーは経理関係がややこしくなることを恐れて、このアルバムをアイルランドのUniversalから買ってほしいと言った。レーベル(=ポール)直接ではなくディストリビューター(=流通)から買うと、働かない奴に利益を与えねばならず法外な値段になるので、私も「うーん」と思ったが、最終的にポール相手にごちゃごちゃ言いたくないという理由で、間に入るだけで何もしないUniversalにかなり儲けさせてしまう結果にはなるものの、割高でこのアルバムを輸入した。おかげで売っても売っても赤字なのであるが、まぁ、それはいい。とにかくポールの最初のインディーリリース(レーベル名はPee Bee)が手伝えて、私としても、とっても名誉であった。

とにかくこのCDはそんなわけでアルタン祭りに先駆けて日本でリリースになった。ポール執筆のライナーノーツは茂木健さんが訳してくれて、松山晋也さんがライナーを書いてくれた。

『The Missing Liberty Tapes』は78年の『Welcome Here Kind Stranger』当時のライブ盤だ。いわゆるレコ発公演。1978年7月21日(金)。場所はリバティホール。ポールはこの時のライブをなんとなく家庭用のオープンリールに録音し、そのまま家に持ち帰っていた。でもそのテープを数ヶ月後に探した時は見つからなかったという。で、家も引っ越したし、ずっとこのテープのことは忘れていたのだという。ところが2000年に屋根裏を引っ掻き回してみると、古いLPの下の箱からこのテープが出てきた。ほんの気まぐれでこのテープをCDに焼いてみようと試みたところ状態も非常にいい。演奏自体にはリハ不足もあり、100%満足いくものでもなかったようだが、それでも素晴らしい音がそこに隠されていた! 
リミックスや差し替え、オヴァーダブなどまったくナシの生の、あの日のコンサート!!



この年,2001年のポールの活動で書いておきたいのは、Vicar Streetというダブリンの小屋での連続1ケ月にも渡るライブだ。『PAUL BRADY SONG BOOK』Vicar Streetは、今でこそ改装が入って1300人くらいになったが、当時は700〜800くらいの小屋だ。とはいえ… あそこはダブリンの人口から比例したら東京の武道館クラスの小屋に匹敵する。そこで1ケ月!! 毎日ゲストを変えて、アコースティックだったり、バンドセットだったり、またLiberty Bellsというトラッド巨匠チームのグループだったり、いろんなセットだったが、これだけ動員できるのもポールならではだろう。ゲストにはヴァン・モリソン、ボニー・レイット、ドーナル・ラニー、マーク・ノップラー、シネイド・オコナー、メアリー・ブラックなどが駆けつけた。HOT PRESSはカラーで14ページの特集を組んだ。このときのコンサートの様子は、ポールのホームページのここでも詳細なセットリストとともに紹介されている。最後の日の打ち上げのセッション部長がシャロン・シャノンなのがいいな、と思った(笑)

どちらにしてもこの成功によって、ポールはインディペンデントなアーティストでやってくという自信が持てたと話していた。「もう人々にわざわざ“俺はすごいだぜ”って印象づけなくってもいいんだ、という気持ちになった」と。

私もこういうコンサート、東京でやりたいな。Paul Brady Song Bookみたいな。ゲストを呼ぶのは大変だろうけど、いつかグレン・ティルブルックやラウーでやった5夜連みたいなコンサート。小さい会場でいいからさ…っていうか、聞きたい曲が多すぎるんだよねー。2晩、多少セットを変えてもらってやったとしても、まだまだ足りないわ…

2012年2月24日金曜日

ポール・ブレイディ来日までの道のり31:Oh What a World

メジャーを離れたポールは99年にライコと契約し、『Nobody Knows』というベスト盤をリリースする。このベスト盤リリース時のHOT PRESSのインタビューより。「『Spirits Colliding」は、僕の一番大事な作品だったのに、ファーストシングルが出たその日に彼等は僕との契約をカットした。実はそれまでマネージャーをつとめてくれていたPaul Cumminsがキッパリ音楽ビジネスを辞めてしまったんだ。95年11月のある日電話がかかってきていきなり<もうこの仕事はやめるよ>と言って、それっきりさ。彼はその後ダイアーストレイツのマネジメントも同じように突然降りた。もうレコードビジネスに嫌気がさしたんだろうか。とにかく彼はこれ以上、他の人間の人生に責任をもつことはいやだと思ったようだ。

そしてそれと同時にレコード会社も完全に僕との契約を切ったんだ。そしてその後、僕は自分のバックカタログを取り返すのに必死だった。マーキュリーとの戦争は本当にひどかった」

しかしポールは不安だっただろう。実際例えばクラナドみたいにメジャーとの切れ目がすべての切れ目みたいになっちゃっているグループは居る(もっともクラナドは美味しいフェスティバルやイベントの公演などは続けているようだけど)。

「2年半、神経にさわる無駄な戦いを経て、最後の最後に元マネージャーのビジネスパートナーだったEd Bricknellに僕が相談したところ、自分のビジネスパートナーがひどい辞め方をしたからだろうか、Edはたぶん良心にとがめている部分があったのだろう…<もしかしたら何か手伝えるかも>と言ってマーキュリーとの間を調整してくれたんだ。実際彼が持っていた某アルバムをマーキュリーに渡す代償に僕のカタログを僕に戻してもらったにすぎない。本当にひどい話さ」

ポールはバックカタログを取り戻し、Ryko Discから新しいレコーディングも数曲加えたベスト盤『Nobody Knows - The best of Paul Brady』をリリースする。メジャー時代のトラックは無事収録されたものの、トラッド時代のMulliganのトラックはここには収録されておらず、ポールがまったく同じようにレコーディングしたものが収録されている(このヘン、まるでグレンのスクイーズのトラックみたいだ)。

再びHOT PRESSのインタビューから「Mulliganとはかかわったアーティストみんながトラブルをかかえている。僕はもうこういう人たちと関わることすらイヤだったんだ。だいたい彼等は『Welcome Here Kind Stranger』のマスターテープすら紛失しまったようだし。それに自分が20年前と同じように歌えることはわかっていた。ちょっとしたチャレンジだったが上手く行ったと思う」

しかしレコード会社ってどうしてそうなんでしょうね…権利ビジネスだからそういう風になりがちなんだろうけど…

「でも今は自分でレコーディングもできるし良い時代になったと思う。まさにStarting Overな気持ちだよ」

そしてポールは少しずつこの新作『Oh What a World』の制作へと入って行く。

「僕は『Spirits Colliding』発表後、すぐにフランスのソング・ライティングのセッションに呼ばれたんだ。そこにはソングライターがたくさんあつめられてたくさん共作するというものだった。それがものすごく楽しかったんだよね。そこから曲を書き始め、曲がたくさん出来て、少しずつレコーディングをしていった。もっともアルバムをつくっているという感覚は作業がだいぶ進むまでなかったな」

このソングライティングのセッションはポールはとても気に入ったようだ。何度もこのセッションに参加したり、ナッシュビルに行ったりして共作を重ねた。

それにしてもこのアルバムはホントウに素晴らしい。私も大好きな1枚だ。今、これを聞きながらこの文章を書いているが、なんだかこのアルバムが一番好きなような気がしてきた。

特に好きなのはシングルにもなったこの曲『The Long Good Bye』



はぁ〜良すぎる。良すぎるよ… ポールが書いた曲の中で一番好きかも。

そしてこの曲も。ライヴ・ヴァージョンですが、すごくいいでしょう? このブログにも何度もあげている映像。ポール+バンドというのは実はあまり好きではないのだけど、これはものすごくいいよね。ポールも楽しそうにしているし。こういうの、実はあんまり多くない。



他にも“Sea of Love”(かっこいい!)とか、“Minute Away Miles Apart”(感動)とか、“Good Love”(涙)とか、名曲がたくさん収録されている。共作のパートナーにはキャロル・キングや、マーク・ハドソン、ローナン・キーティングなどもいる。

ここで、やっとポールの歴史に私の仕事歴も追いついた。このアルバムは一応ウチから地味ながらも日本発売になった。現地でリリースされたのは2000年だったが、そこから遅れること1年ちょっとだったか… アルタン祭りでやっと正式に初来日するポールの来日を受けてのことだ。

『ロマンティック・ダンディ』(笑)以降、初めての日本盤…正確には輸入盤に帯かけだったから日本流通版だ。たいして売れなかったが、まぁ、そんなことは気にならなかった。これは本当に本当に良いアルバムだ。遠い海の地平線がポールのこのときのさわやかな気持ちをあらわしているみたいだ。

2012年2月23日木曜日

Paul Brady & Andy Irvine on "Spin"

せっかくひととおりポールに資料をあさって、ネタを拾ったと思ったのに、こんなおもしろい映像見つけちゃいました(下の映像)どなたか全編みた人はいますでしょうか? 私は初めて見ました。ふぅ〜こんなに気をつけているのに、やっぱりアイルランドのTV、見逃しちゃうもんだなぁ…

それにしても何度聞いてもすごい「Plains of Kildare」ですが、この曲の秘密が知りたい人、アーサー・マクブライドの誕生秘話など…この映像にはネタが満載です。それにしてもポール楽しそう。番組のプレゼンターのフィリップ・キングは、「Bringing it all back home」の制作者であり、元スクーリオンのメンバーでもある人ですが、フィリップも老けたなー(笑)



この番組全編みたいなー。ポール、DVDとかで持ってないかな…

とか思ってたら、NMEがこんなページをまとめてました。単なるYou Tubeの寄せ集めですが、結構便利かも。→ Paul Brady & Andy Irvine @ NME VIDEO


ポール・ブレイディ来日までの道のり30:Spirits Colliding

やっと『Spirits Colliding』だ。93年にベスト盤の『Songs and crazy dreams』が出て、95年の作品になる。ポールのメジャーにおける最後の作品。このアルバム、ホントーーーーに大好き。もう死ぬほど聞いたかも。捨て曲なんて1曲もなしの最高の作品だ。もしかするとこのアルバムが私がポールの作品の中で一番好きかも…いや違うな。やっぱ『Hard Station』かな。でもあれはものすごいテンションの作品だし、新作『Hooba Dooba』も最高だ… でもこのアルバムは、すごくリラックスしてんだよね。すべてがね。演奏もすごくいい。こういうポール独特の空気感がちゃんとレコーディングという形の中に収められているように思う。

このアルバムの頃になると自宅録音も可能になってきて(ポールのお家はお庭にすごく素敵なレコーディングスタジオがある)、その他にはボウレーンとかダブリンの小さいスタジオで録音された。シャロン・シャノンとかとも付き合いがはじまったのか、シャロンがゲストで1曲出ている。シャロンはいつもの感じじゃなくって(笑)静かな曲でちんまりとした演奏だけど、すごく良い味を出している。そしてヨーロッパツアー中だったベラ・フレックとフレクトーンズの一行がかなり参加している。あとコアーズがバックコーラスで参加していて、加えて、ポールのお嬢さんのセーラも一緒に歌っている…等々。

曲がなんといってもいい。もう私が大好きな“I want you to want me”…なんでこんなにかっこいいだろ(うっとり)。イントロだけで、もう本当に最高。全部最高。

そして最近ボニー・レイットが新作でカバーした“Marriage Made in Hollywood”のベラ・フレックのバンジョーが、もう最高なんだ!! ポールの独特のこのフィーリングの後ろででベラらしく疾走していくバンジョー。かーーーっ。どうしたらこんなのが可能かなぁ! まったく。そして“The Island”の続編といった感の“You're the One”。

Cities are dying
Leaders are lying
Demons dancing in the air

まるで今の日本を歌ったみたいだ…

マーク・E・ネヴィンとの共作“Love made a promise”も最高。

それから“I will be there” これはウチの女王様とのデュエットのヴァージョンが秀逸。しかしポールの声、すごいな…音はメアリー・ブラックのアメリカでラリー・クラインと作ったアルバム「シャイン」からのヴァージョン。


朝が来て
でも何も変わらない
外の世界は
馬鹿な古いゲームを続けている

はぁ〜なんていい歌なんだろ!! 

この曲に思い出がある。すみません、またパーソナルな思い出ですが…。ポールのオーストラリアのツアーについていった時だった。コンサートが終わってお客さんも帰ったのだけど、私たちは前座を勤めていた若い女の子と一緒にホールのバーでデレデレと飲んでいた。ポールはこの前座の若い子に(愛情ある)説教をしていた。彼女もシンガーソングライターだった。もう名前も忘れたけどいい子だった。「自分の歌を書いたってダメなんだよ。聞いている方に“あ、これは自分の歌だ”って思わせないと」とポールは言っていた。

そこで私はすかさず言った。「When morning comes Nothing's changedって、私の歌だと思った! 聞いてすぐ分かった」と。そしたらポールはすごく嬉しそうな顔をしていた。あの夜は幸せだったな。

確かアデレードとか、そんな場所だった。911から時間もあまりたってない頃で、翌朝イラクへの攻撃にオーストラリアも参加する、そういう夜だったと記憶している。その夜、シドニーのオペラハウスに「NO WAR」と誰かがペイントしたのだ。これは2つの意味がある。「NO WAR」というそのものの意味と「こんなに緊張感が高まっている時期だというのに、俺たちだってオペラハウスのセキュリティを突破できた。テロリストのアタックは止められないんだよ」と。

私たちは楽屋で新聞記事を読んで、えらい!良くやった!とみんなで喜んだ。この世界、どんなに国際関係が緊張している時も、フォーク周りの連中は、良い。みんなリベラルで、どこにいても一体感を感じる。アメリカ国内でさえも。日本で意見や生き方が違う人たちよりも、ずっといい。

あの時はどんな事情があったのか覚えていないけど、通常ポールと一緒のホテルに泊まるのに、私は別のホテルに泊まっていた。(たぶん会員制のホテルかなんかで、取れなかったんだろう。それかあまりに高くて泊まれなかったとか?)月がものすごく大きい夜で、「あの月の写真を撮っておけ」とかポールは言ったりして、すごくご機嫌だった。ポールはお付きのドライバーに「ヨウコを先に送っていけ」と言って、私のホテルの方に先に車を回してくれて、そして私のホテルの前でバイバイしたのだった。「来てくれて本当にありがとう」とポールは言っていた。

あの時はバジェットの都合で、いつものロードマネージャーのジョンが一緒じゃなかった。ポールはマネージャーを地元オーストラリアで雇っていて、その彼はポールは始めてだったみたいだから、結構辛いものがあったのかもしれない。すごく気丈によく頑張っていたのだけど、ポールはあまりお気に召さないみたいだった。だから古株の私が顔を見せた事で多少でも役にたてていたのだとしたら良かったなと思う。翌朝、私は一人で東京に戻った。世界中がピリピリしてアメリカのはじめた戦争にまきこまれ、いったいどうなるかと思っていた日の朝、前日のコンサートを思い出したり、ポールの手を握って分かれたあの感じを思い出しながら私は最高に幸せだった。

秋田の人、タワーへ今すぐ行ってください!

 






秋田に住んでいる人、今すぐタワーレコードへっっ!

タワーレコード秋田店さんが送ってくださいました。お店の方、チケットをわざわざ買って公演に来てくださるくらい、ポールのことを応援してくださっています。うううう、泣けるよ。それにしても、何もしてくれないのに業界内招待おねだりのメールも多いってのにさ… 本当にありがたい事です。音楽業界も捨てたもんじゃないね! ありがとう、ありがとう!

数は多くないけど(すみません)、熱心なお客さんにささえられてポール・ブレイディ、6年ぶりの来日はもうすぐ。

2012年2月22日水曜日

これは誰でしょう?


ポールのお母さんですらポールのことが分からなかったという…ポール先生@クレマスター3マシュー・バーニーのフィルムより。

日本じゃビョークの旦那(今でも旦那?)として知られている彼ですが、本当にアートフィルムの世界では超一流の大セレブです。そのマシュー・バーニーが、ポールを選んだ。すごいね。

映像はまさかあがっとらんだろうと思ったら、見つけましたわ。


私も見に行きましたよ。『クレマスター3』。2002年の作品。ポールが出るというだけの理由で出かけていった。恵比寿の写真美術館の映画館。映画は長くて5時間くらいやってたと思う。

で、今みたら、なんとDVDがあった! 信じられん。マシュー・バーニーなんて映画祭とかイベントじゃないと観れんと思ってたのに。さっそく購入。




ポール先生の授業ですよ

すごく面白いですよ。UCDにおける講義PDFおよび音声でも楽しむことができます。

写真はUniversity of Ulsterで名誉ディグリーをもらったときのものですけどね。

いいですね〜偉くなると〜ディグリーをもらえて! 大学では全然さぼってたくせに〜(笑) 2,3週間しかいかないで、とにかく音楽やってたそうですよ。


ポール・ブレイディ来日までの道のり29:Trick or Treat

91年。私はすでにその前の年にメアリー・ブラックに出会い、このアルバムからポールの音楽もリアルタイムでしっかり聴くようになりました。もちろんS石さんたちのご教授で、すでにポールのファンにはなっていたものの、メアリー・ブラックと仕事を始めたから、他社のリリースも気にするようになったということの方が大きいかな。あの頃の私は本当にメアリー100%だったから、メアリー以外は全部、敵!(笑)そう、このアルバムは日本でもメジャーでリリースされたから、私も日本のレコード会社がどんな対応をするか、非常に興味を持ってながめていたのでした。

この頃の洋楽のプロモーションってすごかったんですよ。今でも時々そういう事あるらしいんだけど、フリーのライターさんをレコード会社の洋楽部でお金を出し合って取材に送りこむってやつをよくやってました。費用だけじゃなくて日当まで渡して現地に行ってもらう。そして、それがそのライターさんの持っている媒体の記事になるという仕組み。それを見た雑誌の読者は「これが流行っているんだ」と思いCDを買う。広告でもないのにお金を持っているところが優先されるという… 本来なら取材はライターさんとか媒体が自主的にやるべきだと思うし、ニュートラルな立場を維持するためにも、必要以上のサポートをメーカー側が出すのは間違いだと思うけど、ライターさんも原稿料だけじゃ取材費もでないから大変なんだ、という事もあった。もちろん自主的に海外取材している人も多いですよ。でも、まぁ、いろんな仕組みがあって、いずれにしても、当時は洋楽バブル期?だった。そういったライターさんの費用を洋楽部数社で折半することが日常茶飯事だったので、当時たくさん女性誌とかに書いていたI氏がメアリーと、そしてポールの取材のためにアイルランドに飛ばされたわけです。

ちなみに余談ですが、このIさん、だいぶ前に業界から消えたなと思っていたのだけど、最近お名前をググったら無免許でつかまったという記事が。いったいどうされているんでしょうね……元気にされていれば良いのですが。当時の私は右も左もわからなかったので、本当にいろいろお世話になりました。実際、ポールの取材もしたIさんにお願いしてポールにサインをもらってもらったんです。

これが私が手にいれたいっちゃん最初のポールのサイン。その後、私はポールとアイルランド大使館のパーティで初めて出会い、そしてその後ロンドンのホテルで再度会い、そこでまたサインをもらったのでした(昨日の投稿参照)。もちろんまだただのファンとして、です。それにしても当時のレコード会社のこの邦題「ロマンティック・ダンディ」もひどかったけど、この時Iさんの書いたライナーもひどかったね。「AORで売りたいんです」みたいなレコード会社の若い女性ディレクターのコメントを下敷きにして、ポールではなくAORのことを2ページほど書き、あとはバイオの日本語訳半ページほど丸写し。でも当時は私も若かった。25くらいで、まだ音楽業界での経験も少ないもんだから、これはこれでありなのだとさえ思っていた。取材記事もFMfanとかに確か載った記憶があるが、どんな記事だったかもよく思い出せない。まぁ、そのくらい印象が薄いということだろう。

とはいえ、日本のレコード会社も曲がりなりにも正式リリースし、現地取材にまで人を送りこんだくらいだから、まさにレコード会社は全世界的にこのアルバムを売ろうとしていたに違いない。というか、どう考えても日本で大きなヒットになりそうにもないこの作品。海外からのプレッシャーがなければ日本のレコード会社はリリースすらしないよね。

このアルバムの制作過程について:ポールは「プロデューサーが必要だ」とレコード会社にいわれ「Yes」と答え、本作はスティーリー・ダンのゲイリー・カッツがプロデュースをつとめて、LAで録音された。バックもマイケル・ランドウとか、ジェフ・ポーカロとか、そういう連中で、プールサイドでマティーニ飲んじゃうみたいな豪華なホテルに泊まりながら、毎日同じスタジオに通うのに、各自に車が与えられるような超ロック「スター」な経験だったとポールは話している。

でもシングルになったのは、ポールがロンドンで自分で録音したというこの名曲。


これがね…ポールの場合、ギター1本でやるんですけど、本当にすごいんですよ。


思うんだけど、ポールったら、結局このLA録音にあまり賛成じゃなかったのかなと思う。公には文句を言っていないし、本当にLAの連中は素晴らしかったと発言しているけど。でもここまで長くやってきてて、ヒットが目の前で、マネジメントも本人も突破口的なアルバムが欲しかったんだろう。考えた事はなんとなく想像できる。だけどポールは、そんな制作側の連中と喧嘩してでも自分の一番大事なこの曲だけは守った(自分で録音して自分でミックスした)というオチじゃないかと思うんだけど……違うかな。

実際ポールには、そんな事が直球で聞けるわけもなく(笑)、今でもその点は分からないままだ。もっともポールもこのアルバムを今では非常に好意的に受け止めているらしいけど。

Up on the rooftop, it's whole other world
Who could see heaven 
and not want to stay?

ポールはこの曲をビートルズのアップルビル屋上の“Get Back”にヒントを得たと言っている。「あれは<僕らの世界だから僕らのやりたいことをやる>といった態度の象徴的なものだったと思う。でも、振り向いたら、誰も自分のことに注目していないとしたら? それどころかそこに誰もいなかったら?」 

それにしても、メアリーと同郷のポールのアルバムが、こんな内容だと聞いて、私も「へぇ〜LA録音ね」と思ったし、フォークファンから当時はブーイングの嵐だったと記憶している。でも今聞いても大好きだし、実際すごく素敵な曲が入っている。“Nobody Knows”なんかは、今、ポールのコンサートにいってこの曲が聞けなかったら、それこそブーイングになるような人気曲だ。

そして、例えば“You And I ”とか、“Blue World”とかも名曲だと思う! “You And I”とか、ライブでは絶対にやらないんだよな〜っっ。


“Blue World”も、あの枯れた感じが超かっこいいよね。今度のライブでもやらないかなぁ。前回の来日のときはやってたと思うけど。

それから名曲“Don't keep pretending”は、ポールがあとからピアノのアコースティックなヴァージョンでレコーディングしなおしてたけど、もう超涙もの! おそらく不倫を歌った思わせぶりな歌詞。もっともこのアルバム収録時はゴージャスなアレンジで曲自体の良さがわからなかったけど。

それにしても何度も書くが、まったくもって、このCDを買った頃の自分に言ってあげたい。人に頼んでサインなんかもらってる場合じゃないぞ、と。20年以上たった今、ポールがまだ現役で頑張っていて、私がこの仕事をまだしていて、一緒に来日が企画できたんだぞ、って。

あの時の自分は音楽業界のすみっこにいたけど、音楽の仕事をきちんとしていなかった。今でもレコード会社で経験したことは反面教師でしかないと思っている。私がちゃんと「音楽の仕事」を出来るようになったのは、プランクトンの川島さんに出会ってからだ。川島さんと出会う前の私は音楽業界で仕事はしていたが、考え方がまるでなってなかった。川島さんは私が独立するときに「大変だろうけど、好きなアーティストについていけば絶対に大丈夫」と言ってくれてお祝いまでいただいた。あの言葉は今も私をずっと支えているし、今でも若いバンドの連中に言ってきかせたりしている。

2012年2月21日火曜日

ポール・ブレイディ来日までの道のり28:Primitive Dance

うわ〜、懐かしい。このアルバムも本当によく聞いた。死ぬほど聞いたな。まだ自分がポール・ブレイディと一緒に仕事できるなんて思いもしなかったころ。まだリアルタイムでは購入していない。1987年の作品。それにしても1曲目の“Steal Your Heart Away”なんて、もう狂ったように聞いた。クラナドのモイア・ブレナンが参加していて、バックコーラスを聞かせてくれている。あとマーク・ノップラーのギターが印象的な“Game of love”もいいなぁ! 結構忘れてはいけないのが、“Eat The Peach”。デイヴィー・スピラーンのパイプが、もう超かっこいい。ポールのティン・ホイッスルもすごいけど。

ティナ・ターナーがカバーした“The Paradise is here”も収録されている。ポールがベスト盤『Nobody Knows』によせたコメント(五十嵐正:訳)より。“The Paradise is here”について「80年代半ばのあるとき、どうして人類はお互いの頭をぶつけあうことなく進歩できないのかの答えを見つけようとして、インドの神秘主義者クリシュナムルティの本「暴力を超えて」に取り組んだ。彼の首とする問題には興味を失ったけれど、僕は彼の説くある概念に魅せられた…時間におけるまさにこの瞬間は、実のところ未来の最初の瞬間であるから、理想的な未来を作りだす方法は、常に今この瞬間を徹底的に生きることである、と」

それにしても充実の内容の作品だが、多分に80年代的であることに間違いない。リイシューされるたびに、ポールがだいぶミックスを変えたりしているらしい。ポールの作品は、オリジナルのもの、しばらくしてライコディスクがリイシューしたもの、それからCompass Recordsに移籍した時、すべてがCompassからリイシューされたものと3種類ある。

ポールは特にメジャー時代のアルバムの権利を取り戻すために相当苦労したようである。もう最悪の交渉だったが、最後の最後に元マネージャーのビジネス・パートナーが別の音源の権利を人質にレーベル側を脅かして、なんとか勝ち取ったにすぎない。ラッキーだった、とポールはHOT PRESSのインタビューに答えて説明している。(まぁ、権利ビジネスってそういうもんなんだろうけど…ホントひどい)

この映像すごいね。ラジオから取った音をyou tubeにアップしてるよ… それにしてもこのギターは、ものすごくマーク・ノップラーっぽい。



from Paul Brady home page
ところでこの頃、というかこのアルバムが出る前、ポールはボブ・ディランに初めて会っている。エージェントから電話があって「ボブ・ディランがヨーロッパツアー中で、お前に会いたいと言っている」と呼び出しをくらい出かけていったポール。実際、めちゃくちゃ興奮したそう。「嘘だろ」と言いながらも、ロンドンに飛び、ウエンブリーの楽屋にボブ・ディランを訪ねていった。ボブの楽屋に行くと「How are you doing?」とかいいながらボブはポールを迎えてくれて「ホラ、お前がやっている“Arthur McBride”と“Lakes of Poncahrtrain”、あれはいったいどうやって弾くんだ」と。「まずはチューニングを変えるんですよ」とポール。「Oh?」みたいな会話があり、気がつくとポールはボブ・ディランの指を取って「そこじゃないよ、ボブ」とか言いながら教えていたのだそう。

そうやってるうちにクリッシー・ハインドやミック・ジャガーが楽屋に訪ねてきたりして、ポールにとってはかなりシュールな場面だったよう。とはいえボブはポール本人に何か感動的なねぎらいの言葉をかけるでもなく、単にギターを教わりたかっただけらしく、そういう意味ではあまりポールとしては感激的なものと捉えていないように見える。

といいつつも、のちにボブ・ディランは「バイオグラフ」というアルバムのライナーでポールのことを「Secret heroes」といってレナード・コーエン、ルー・リードと並べて大絶賛した。これには本当に感謝しているし、この当時の自分のキャリアにとって本当に大きな応援になった、とポールは発言している。

ボブ・ディランは88年から89年にかけてポールの真似をした“Lakes of Ponchartrain”をよくライブでうたっていた。92年には“Arthur McBride”を録音。そしてブートレック・シリーズで“Mary and the Soldier”を発表している。

さて、話は変わって、これは97年の話。私はあんまり自分のアーティストにサインをもらったことなどないんです。でも、これはポールと一緒に仕事をする、だいぶ前のこと。ロンドンのホテルでアルタンのメンバーと飲んでいたら、そこにポールがやってきて、しばらく一緒に飲んだという事があったのです。その時、偶然持っていた2枚のアルバムにサインしてもらったのがこれ! 『Primitive Dance』と『Hard Station』 ちょうどライコがリイシューした時で、偶然持ってたんだよね。すごいよね。

で、私はポールにも一杯おごって、あのポール・ブレイディにビールを買ってやったぜと、ものすごく心の中で誇りに思っていたのでした。(そういや、どういういきさつだったら、あの時はセクシー・ロンちゃんも合流して、楽しく飲んだのでした)確かそのことは、ウチのホームページの出張レポートに書いたから、MUSIC PLANTを昔から応援してくれている人の中には覚えている人もいるかもしれない。ルナサのファーストが出たばっかりの頃。ルナサをおっかけてロンドンに行った時の事。

まぁ、でもそのときは、その6年後くらいにまさか自分が一緒に正式に仕事をすることになり、そして今、15年以上たって私がプロモーターとしてポールを呼ぶ事になるとは、夢にも思わなかった。あの頃の可愛い自分に言ってあげたい。何やってんだ、お前は将来ビールどころか、一緒にポールと仕事して、ツアーを作ることになるんだぞ、と。

このときポール、すっごくご機嫌だったんだよな。サインしてLoveとか書いてあるし。ハートマークも。うふふ(笑)。そのときにポールに頑張ってした会話をまだ覚えている。「私は学生時代ポール・ヤングの大ファンで、ポール・ヤングもあなたの“Follow On”が好きだって知ってすごく嬉しかった」「あぁ、彼のヴァージョンもいいよね」なんてポールはニコニコしながら言ってくれた。ホントたったそれだけなのに、本当によく覚えている。あぁ、ロンドンの夜。懐かしいなー。ただのファンだった時代。

なんか、すごいね。夢ってかなっちゃうんだね。さっきのポールの“Paradise is here”じゃないけど、一歩一歩,今を必死で生きれば、自分で未来を創造していくということにつながる。まさに、そういうことなのかも…


2012年2月20日月曜日

ポール・ブレイディ来日までの道のり27:Back to the Centre

『Back to the Centre』これも、もう狂ったように聞いた。何で聞いたかというと、音楽ライターのS石さんがくれたカセットテープ(笑)「Both Side of Paul Brady」(タイトルがさすがS石さん! スコットランドのトラッドBoth Sides of Tweedから取ったのだ)と題されたカセットの、そのトラッドサイドには『Welcome Here Kind Stranger』が、そしてコンテンポラリーサイドにはこのアルバムが入っていて、私はずーーーーっとコンテンポラリーサイドの方ばかり聞いていた。89年とか90年とか、そのくらいの話である。この作品はちなみに85年発表。

当時は日本でも洋楽全盛期といった感じじゃないだろうか。それにしても大傑作だと思う。1曲目の“Walk The White Line”なんてライヴみたいだ。ものすごいヴォーカル。圧倒的。レコーディングにもお金がかかっていそう…

2曲目の“Wheel of Heartbreak”は、デュランデュラン意識して書いたんだよとポールは最近言ってたなぁ。つまりそういう時代だったわけだ。その次の“Deep In Your Heart”とかも、もう大好き。そして“Follow On”はポール・ヤングがカバーした名曲。圧巻は最後の2曲。“The Island”と“Homes of Donegal”。どちらもポールの代表曲で、今でもライブでよく歌われる。



再びリイシュー時のポールのコメントより(五十嵐正:訳)「僕は1、2年ほどライブ活動を休み、曲作りに専念していたので、これらはすべて新曲で、録音された時にはまだ人前で演奏されたことがなかった。録音場所はバッキンガムシャーで、大半はヒュー・マーフィーの家で行われた。また彼と一緒にやれてよかった… たぶん僕は『Hard Station』に近いものに戻りたかったのだろう。それからアルバムを半分ほど録音した時点で、僕は方向を変えたくなり、ロンドンに持っていってイアン・メイドマンと僕で完成させた」

エリック・クラプトンが“Deep In Your Heart”でギターを弾いている他(いかにもそれっぽい演奏!)、U2のラリー・ミューレン、ラウドン・ウェインライトなどが参加。

“The Island”は、ポール版「傘がない」といってもいいかな…「レバノンの空は燃えている。子供が路上で死んで行く。でもこの歌を悲しい歌にしたくないんだ。今は君といるんだし、島へ行って砂の上の足跡をたどって歩こう。夜明けまで愛し合おう」みたいなそんな内容だ。この曲をポールは何年もかけて書いて、スタジオのマイクの前に立っても、まだ書き終わってなかったのだという。最後の行を歌うのを余儀なくされたようで、そういう形で、やっと長年書きおえた。

当時はアイルランドの南北の紛争が激化していて、とてもシリアスな時代だった。ちなみにクリスティ・ムーアが“The Island”に対抗して書いたアンサーソングが“The Other Side”ということらしい。

当時を振り返ってポールは(HOT PRESSのインタビューより)「当時は難しい時代で、友人もたくさんなくした」と答えています。

「でも最近、音楽関係者の人で僕のところに来て“あの曲については僕が間違っていた。あの歌を歌ってくれて良かった”と言ってくれた人がいたよ」

「実際あの当時、僕は非常に孤独だった。アリルランドの伝統音楽シーンは、もう“大変だ。ハンガーストライキだ! サッチャーは最低だ。一緒に彼等を救い出そう”っていう空気でいっぱいだった。電話が鳴ると“ポール、来週リバティホールで集会がある。来て歌ってくれるだろう?”って。“いや行かないよ”と僕が返事をすると、電話の向こうは沈黙。そういう事ばかりだった。もう完全に孤立状態さ」

「僕はストラバーンで宗教も男女もミックスされた学校に行ったから分かるんだ。良くも悪くもこの世には黒白つけられる事なんて一つもないってね。僕はだいたい物事をグレイで見る。だからポリティカルな歌を書くのは好きじゃないんだ」

「僕の忠誠は、すべて音楽、歌、音楽の神へ捧げられている。偉そうに聞こえるかもしれないけど、そうあるべきだと思う。僕の古い歌たちが、古くてもまだ現在の人の心を動かすことが出来るのは、それらが問題ごとにかかわっていないからさ。言うなれば時事的な問題よりも、人びとの心にかかわっていると言った方が適切かな」

ポールってこういうところ、ものすごく頭がいい。たとえば、食事などをして話をするとき、人の噂ばなしをするでしょう? 人の事を批判する時も、普通の人はだいたいストレートに「あの人のやり方は間違っている」とかストレートに言うんだけど、ポールは絶対にそういう言い方をしない。

だいたいはストレートに悪口を言わないで、例を1つあげる。例えば具体的に例をあげると、実はとあるミュージシャンについての話。まったくあの人はだらしなくて、いやんなっちゃう、みたいな事を話したら、ポールはこんな風に話してくれた。その人はいつもIMRO(まぁ、アイルランドのコピーライトの団体みたいなもんですね)の文句ばかり言っているんですって。で、IMROの議員の席が空いた時に、その人は、まぁ有名ミュージシャンの一人だからミュージシャンたちの選挙で選ばれてボードメンバーになった。で、ずっと前からIMROのボードメンバーだったポールは「良かった。ぜひミーティングに来て僕らが普段やっていることを見てくれ」って張り切っていたんですって。でもその彼はなんとミーティングに一度も顔を出さなかった、って。それが…そのエピソードが、もうその人の性格を適格に説明していて、私はその話自体よりも、ポールの説明の仕方に本当に感動してしまった。

なんか、頭がいいっていうか…で、絶対にストレートに、もしくは単純な言葉での批判はしない。そこがポールって男らしくて、本当にかっこいいと思う。まぁ、ソングライターだからね、こうでなくっちゃ多くの人を感動させる歌を作ることなんて出来ないんだろうけど、それにしても、だ。

かと思うと、今度は某別の国にいる共通取引先。私が「もうひどいのよ、あーで、こーで」と言いながらも英語でうまく言えなくて、言葉につまると「分かるよ」って言ってくれる。その感じ。その感じが、ホントにホントに…(と絶句!)

やっぱりポール、最高にかっこいい!!!!

すみません、興奮しました。なんかもう正常に物事考えられないなー。早く早く早く来ないかなぁ。ポール! 先日五十嵐正先生にお会いしたところ、あのブログを見るとポールのディーバ(っていうかディーボ)ぶりがすごいなぁ」と言われたので、もっと優しいポールのエピソードを書かなくちゃと思っているところ。また友達にも「ポールを大好きなのはよくわかりましたよ」と呆れられますが、ホントにこの来日が終わったら、私は何を心のささえに生きていけばよいのでしょう。本当に困った。

2012年2月19日日曜日

ポール on ONE NIGHT ONLY @ RTE, AGAIN

RTEでいつだったか放送された番組が再放送になったみたいで、またRTEのプレイヤーで見ることができます。こちらへどうぞ〜。25日まで試聴可能だそう。50分ほどの番組。生演奏+インタビュー。

それにしてもここでも「気難しいアーティスト」ってのがゲイ・バーンにつっつかれてて、ちょっとゲッソリ(笑)。いいんだ、ポールの優しさは私が一番分かっているから♥ それにしてもこの来日が終わったら、何を心の支えに生きて行ったら良いのかわかりません。すでに消耗気味。身体もたんわ…

ポール・ブレイディ来日までの道のり26:True for You

「Difficult Second Album むずかしい2作目のアルバム」とポールが呼ぶ『True For You』。実は私が最初に買ったポールの最初のアルバムはこれだった。なぜかアナログで買って、穴があくほど聞いた。でも買ったのはたぶん89年くらいだと思う。なぜか都内のレコード屋で見つけたのがこれだったんだよね。83年の作品。

アイルランドから飛び出したポールは、ポールはイギリスに引っ越し、イギリスのマネジメントのもとで仕事を仕事をするようになった。バンドもイギリス人。でもこの時のメンバーが、今でもポールのバンドツアーを支えているところを見ると、もしかするとこれがポールに取ってベストな出会いだったのかもしれない。“Say What You Feel”の頃かな、一時、アイリッシュだけのバックバンドもやっていたけどね。

ポールのリイシュー時のライナーノーツより(五十嵐正さん訳):僕らはロンドン周辺での幾つかのギグとたぶんアイルランドツアーもこなしてから、82年冬にサレーのリッジ農場でこのアルバムの制作を始めた。そこは膝まで浸かる雪に覆われていた。確かに最初のレコードほど制作は簡単ではなかった。あれは考えることもなく出来上がったが、これは既にやってしまったことをいかに拡大していくかを計画し、その方法を考えだしていかねばならなかった。そのために、新しいミュージシャンたちと理解を深め、異なった共同プロデューサーと働いた。共同プロデューサーのニール・ドーフスマンはダイア・ストレイツの『ラヴ・オーヴァー・ゴールド』とスプリングスティーンの『ザ・リヴァー』の仕事を終えてきたばかりだった。これは僕がアイルランドの外へ自分の翼を伸ばし、前作で得たものを強固にする試みだったと思う」

まぁ、でもこのアルバムで一番といえば、やっぱり奥さんのために書かれたという名曲「Helpless Heart」だ。この曲は、モーラ・オコンネルジョニー・ローガンフィル・コリンズ、デイヴィット・クロスビーなどがカバーした。こちらはつい最近のRTEのインタビュー番組から。



でもポールは歌詞について自分のことを歌っているかどうかは、あまり関係ないだろ、と言う。「特に“Nothing but the same old story”なんかは僕がロンドンにいたころのことを歌っているんじゃないかとよく言われる。実際題材もそこからひろった部分はある。だけど、結局自分のことではない」

HOT PRESSのインタビューより。インタビュワーの「聴衆は歌の歌詞をあなたの個人的なものだと受け取るべきではないのか?」という質問に答えて。

「そうは言わないさ。ただ、それにいったいなんの意味があるんだ? この主人公が僕か、僕じゃないかって? そんなことは関係ない。音楽は僕より長く生き残る。僕の歌は他の人たちにも歌われる。そして聴衆は、もしかしたらその歌詞が、歌っている人たちの事だと理解するかもしれないだろ?」

また奥さんとのことについても「残念ながら僕とワイフはよく会話をしているんでね。僕がわざわざ歌の中にいろんな事を隠さなくても理解が出来ているんだよ」と。

HOT PRESSのインタビューは、まぁ、よくもこんなに失礼な質問をポールに出来るわいというつっこんだ質問をしているので、またここで紹介していきたいと思います。

「Helpless heart」以外には「Steel Claw」はティナ・ターナーやデイヴ・エドモンズが、「Not The Only One」は、ボニー・レイットがカバーした。特にティナ・ターナーのカバーは彼女の大ヒット作「プライベート・ダンサー」に収録されたから、たいへんな印税だったに違いない(笑)。

ポールの家にはゴールドディスクがゴロゴロしている。うーん、さすがロック・シュター(笑)

2012年2月18日土曜日

ポール・ブレイディ来日までの道のり25:やっちまいました

やっちまいました。作っちまいました。ポール・ブレイディ・チロル・チョコ。

こんなことやってるからツアーが赤字になるんだよね?(笑)

最初ご来場の皆さんに1コずつ差し上げられるくらいあるかなーと思いましたが、ちょっと微妙な数なので、会場でCDを買われた方に1枚につき2コずつとかプレゼントとかしようと思います。皆さん、CD即売ご利用くださいね!

ポールの機嫌が良かったら、きっとサイン会もしますから。どうぞよろしくお願いいたします。


ポール・ブレイディ来日までの道のり24:Hard Station


「でもそれはもう最悪のタイミングだった。ちょうど結婚したばかりで子供は幼く、まだ家を買ったばかりでローンが残っていたし…そんな中で僕は“よし、仕事をやめよう”と思ったのさ。家に子供がいて不可能だったから別に部屋を借りて曲を作った。それが“ハード・ステーション”になった」

まさにCrazy Dreams! 96年のLater with Joolsから。はぁ〜♥ かっこいい!



もっともこのアルバムのヒットは確定されていた。Crazy Dreamsが先行シングルになってすでに1位になったりしていたからだ。発売前に充分アイルランド国内をエレクトリック・バンドを従えてツアーもしていた。ポールはウインドミル・レーン・スタジオにヒュー・マーフィをプロデューサーに迎え(やっぱりジェリー・ラファティーを意識してるよね)このアルバムを制作。アルバムは熱狂的にアイルランドの市場に受け入れられる。

本当にこのアルバムは大傑作だ。今でもポールの代表作といわれる作品がたくさん並んでいる。タイトル曲なんて、ホント大好き! 



でも実は私が好きなのはこういう静かめの曲だったりもする。本当にいい。なんていうか、すべてがいいんだ、このアルバムは!



“Dancer in the fire”が大好きで、以前リクエストにしたのはここにも書いたことがあるけど、音源が見つけられなかった。まぁ、皆さんCDを手に入れて、ぜひ聞いてください! ポールは日本に来たあと大きなUKツアーをやるのだけど、そのタイトルは“Dancer in the fire”ツアーらしい。うふふ。ポールもこの曲の良さにやっと気づいたか?! 確かこの曲はモデルがいるって聞いたことがある。資料をさぐったけど、どうしても見つけられなかった。

これなんかも…うっとり…先日ウチのFacebook Pageでポールのリクエスト大会をやったら、この曲が1位だった。ちょっと意外。トラッドものが来ると思ったから。お客さん本当に分かってる!




そして、もちろんこの映像も大好き。かっちょいーーーーーーーーーーーーーーーー! やっぱりポールはソロがいい。バンドもいいんだけど、なんかポール以外の音を聴きたくないんだよな。ホントにホントに、ホントにかっこいい。


もちろん“Welcome Here Kind Stranger”は世紀の大傑作だが、私はどっちかしか無人島にもっていけないと言われたら、こっちのアルバムを持っていくな…。

そしてこのアルバムがどうやらポールをマック・ノップラーやらそのヘンの人脈につなぐこととなったようだ。再びRTEのインタビューより。

「この作品を聞いたマーク・ノップラーがものすごく気にいってくれてね。当時ダイアーストレイツは一番大きなバンドだった。そして自分のマネジメントに僕をマネージするように、とまで言ってくれたんだよね。そしてこれが僕をアイルランドから外の世界へ連れ出してくれるきっかけになった。今でもとても感謝している。そして他の人たちに作品を取り上げてもらえるきっかけとなった。ちょうどティナの復活のあとのアルバムを彼がプロデュースしたんだよね。そのときに曲は何かないかと聞かれて、作品を取り上げてもらえた」

「ちょうどこのころエリック・クラプトンにも出会った。82年くらいかな。きっかけは、彼のバンドのアルバート・リーがアイルランド音楽が大好きな人でね。その人がクラプトンに僕の音楽を紹介してくれたんだ。彼がダブリンで公演をやる時に、オープニングをやらないかと誘われた。会場はスタジアムだった」

「でも僕はちょうどその前の年に自分のヘッドライナーでスタジアム公演を実現させていたので、うーん、前座かぁ!と思ったんだよ。でも、まぁよく考えろよ、ポール。あのクラプトンが言ってきてくれてんだぞ…って事で、その話を引き受けたんだ。3日間、前座をやった。彼とマネジメントは当時、キルデアにお城を所有してたんだけど、公演が終わるとそこにみんなを呼んでくれてね。そこで今度ヨーロッパを40日間ツアーをするんだけど、一緒にまわらないか、と言われたのさ。前座をやることで(open stage)、自分のキャリアにおいて素晴らしいきっかけ(open world)を掴んだのさ」

「僕のキャリアにおいて、たくさんのことがオファーされ、僕が受けるかどうか戸惑うこともたくさんあった。でも実際やってみると、いろんな扉がひらいてね。それはまるで魔法みたいな感じだったと言えるだろう」

2012年2月17日金曜日

ポール・ブレイディ、チケットまもなく〆切ます

ポールが何年か前に誕生日にくれたニコラス・モスのマグカップ。

実は同じものを私はそこからさかのぼること数年前に買っていたのに落として割ってしまい非常に残念に思っていたので、この偶然に狂喜乱舞。というか、ポール、私の好みをよく知っているよね。すごい〜。もっともこのチューリップ柄がニッキー・モスの一番ベーシックな柄ではあるのですが。とっても大事に使っています。


さてポール・ブレイディのチケットですが、チケットの輸送時間を考慮し、そろそろ通販の方は閉め切りますので、ご希望の方はお早めにこちらよりお申し込みください。そして一応28日の夜くらいまでは取置き(予約&現地精算)でメールで受付ようかと思います。

おそらく土曜日日曜日、両日とも当日券も出しますので、当日まで予定が見えない人も、ぜひご来場ください。ただし土曜日の方はかなり混んできてますので、ソールドアウトにするかもしれません。現在調整中。今から来る人は、日曜日の方が全然すいてますので、日曜日の方が環境よいですよ。

それにしても、もう私はポールの事で頭も気持ちもいっぱいいっぱいで、ホントいっぱいいっぱいになってきました。やばいです。舞い上がっている野崎を見にくるだけでも面白いかもしれませんよ。あぁ〜それにしても、ホントにやばい…いっぱいいっぱいで、このままなんだか自分の人生が終わってほしい…とバカな事を思ったりもするのです。今、死んだらすごく幸せなまま死ねるだろう。はて、これが終わってしまったら、いったい何を心の支えにしていけば良いのか。ううう、人生は厳しすぎる… とにかく頑張ります!

それから公演の日程が近づいてきましたので、皆さんお手元のチケットを今一度ご確認ください。いつも必ずツアーが始まってから「チケットをなくした!」「チケットが届いてない!」などのご連絡をいただきます。THE MUSIC PLANTは私がたった一人で運営している個人オフィス。アーティスト来日後に何か言われても対処できないことが多いです。何かございましたら、今!(笑) 今、言ってください。メールはここ。皆様もご協力をお願いいたします。

ポール・ブレイディ来日までの道のり23:Welcome Here Kind Stranger

「ウェルカム・ヒア・カインド・ストレンジャー」はおそらくアイルランド音楽の長い歴史の中で、もっとも重要な作品と言って良いだろう。とにかくすごい完成度だ。78年発表。プロデュースはドーナル・ラニーとポール・ブレイディ。アンディ・アーヴァインやトミー・ピープルズ、ノエル・ヒルなどが参加し、これもやはりプランクシティの延長だと言える。

本作は、一時はポール自身もブートレッグと呼ぶ某レーベルがアナログ起こしで、しかもトラックの付け方が正しくないCDが広く出回っていた。最近になって、やっと今はポールの手にマスターが戻り、リマスターされて、ここにある。

実はこのCDをポールが自分のレーベルから出した時、うーん、これはどうしようかと思った。THE MUSIC PLANTでは、最近はもうジョン・スミス以降、新しいものは発売しないようにしようと思っていたのだけど、でもせっかく今回ポールも来てくれることだし、御大に敬意を評して、本作と「フーバドゥーバ」を多少、流通に流しておいた方がよかろう、という結論に至った。

発売しても、まぁレコード店もこれだけ少なくなった今、たいして売れやしないので、あまり意味がないかもしれない。ただ唯一出したことに意義があったとすれば、松山晋也さんの素晴らしいライナーをこの世に送りだす事ができということだろう。とにかく皆さん、ぜひ日本版を買ってほしい。今回のポールのツアーを成功させるためにも! どうぞよろしくお願いいたします。ちゃんとウチのCDは、もちろんポール本人から買ったストックですから。(手配はUKだったけどね/笑)

「ポール・ブレイディがヴァン・モリスンと並び、アイルランド最高のシンガー・ソングライターの一人でありる、と断言することにためらいはない」と始まる松山さんのライナーを読むと、ホントこのアルバムを地味ながらもリリースして良かったなと思う。そしてライナーは「永遠に瑞々しさを保ち、同時代を生き続けるアイリッシュ・トラディショナル・フォークの金字塔。生涯手元に置いておきたい、一撃必殺の名盤である」と終わる。うん、本当にそうだ。松山さん、本当にありがとう!

ポールの家に遊びに行った時、ポールはこのアルバムのカバーになった素晴らしい絵のオリジナルを見せてくれた。ポールは「ほらっ」とこの絵を照れくさそうに投げてよこした。私が夢中になって写真を撮っていたら、それをニコニコ嬉しそうに眺めていたけど、たぶんポールの家を訪ねる音楽関係者、全員がそういう態度を取るのであろうと想像できる。みんなの思い入れを受けて、この作品は本当にアイルランド音楽の宝物みたいな作品だ。

実際見た絵の大きさは作品としてそれほど大きいものではなくLPサイズくらいだった。そしてオリジナルは、私が当時持っていたボロボロのアナログ盤よりうんと色がくっきりと鮮やかだった。ポールの奥さんが「このアーティスト当時はすごく活躍してたのに、今はどこにいっちゃったか分からないのよね」と話してくれた。(そういえばポールのお家に行った時、奥様がお茶をいれてくれたのだけど、はじめてアイリッシュの家庭でティーバック&マグカップでないお茶が出て来てビックリした。さすがロック・シュターの家は違う)

この作品はメロディー・メイカーがこの年のベスト・フォーク・アルバムに選んだ。このアルバムは本当に高く評価された。ドーナル・ラニーいわく「ポールがもしこの伝統音楽の世界に留まっていたら、彼はこの世界で最高の地位についただろう」と評価している。


このアルバムの収録曲でもっとも有名な曲が「The Lakes of Ponchartrain」だ。ポールはこの歌はプランクシティ時代にならったという。ルイジアナの混血の女の子にアイルランドの兵士が恋に落ちるという内容だ。歌詞の内容が分からなくても、聴けばすぐにこの曲のもっている旅のセンチメントみたいなものを感じることが出来るだろう。元々クリスティのレパートリーで、アンディとツアー始めたら、お客から結構リクエストが飛ぶので、ポールが歌っていた、と。そうこうしているうちにポールの、自分自身のレパートリーになっていったそうです。今はポールのヴァージョンが一番有名だし、このあとに続くヴァージョンは、すべてポールの影響を感じさせるわけだけど。




のちにこのポールのヴァージョンに影響を受けて、ホットハウス・フラワーズのリアムが歌うようになった。リアムのヴァージョンも素敵です。最初に聞いたのは「Bringing All Back Home」の時だったかな…



このアルバムを最後にポールは伝統音楽との係わりに決別をつげる。再びRTEのラジオのインタビューより。DJのおばちゃんから「でも伝統音楽からの大きな方向転換って、いったいどういう理由なの? いつだったか伝統音楽はもうやらないのか、と聞かれて“それは単なる自分の人生の一時のページであって、自分の音楽ではない”って答えてたのを聞いたけど」と言われ、ポールはこんな風に説明しています。

「いや、それは違う。伝統音楽は間違いなく自分の音楽だよ。ただそれだけがすべてという事ではないんだ。伝統音楽をやっている時は本当に伝統音楽を愛していた。ものすごく若かったし、少しずつ人から知られるようになってきて嬉しかった。プランクシティもアンディとのデュオも本当に楽しかった。世界中をツアーして、ニューヨークの大きなホールを一杯にしたりしてさ。でも70年代の終わりに思ったのは、結局のところアイルランド伝統音楽の巨匠にはなれないって事なんだ。僕はフィドルの名手でもなければ、パイプの名手でもない」

「その頃、それまで自分が好きだった音楽(リズム&ブルーズなど)を封印してきた。結局アイリッシュミュージックで僕ができることはこれまでた。アイリッシュミュージックの方も、僕のことをもう必要とはしてない、そう思ったんだ」



ちなみにこれは珍しいポールのパイプ演奏の写真(笑)from Paul Brady Music Facebook Page








「僕を大きく変えてくれたレコードは、ジェリー・ラファティーの“Baker Street”だ。“City to Ctiy”は本当に名盤だった。ジェリーのことは昔からよく知っていたし、ハンブルバムズとジョンストンズはよく比較されもした」

「ジェリーがすごいアルバムを出した。いったいどうしてこんなことが出来たんだ!と、僕は思ったのさ。それが拍車となった。自分の中にたくさんの音楽が眠っていることを僕は自分で分かっていた。もうほとんど1晩で決断したんだ。もう辞めよう。ソングライターになるんだ、と。自分の中の音楽を開放しようと思った」

ここからは私の想像だが…もちろんこの決意には音楽的なものが大きかったのだと思う。自分の本来好きだったものは何か、ポールは思い出したんだと思う。でも、きっと想像するにポールはアイルランドの伝統音楽シーンのごちゃごちゃにほとほと疲れていたんじゃないか、と。そこから20年たって、やっとアイルランド音楽シーンの隅っこで仕事を始めた私ですらも、どうして彼等はちゃんとマネジメントして、きっちりプロモーションを計画的にかけて活動しないのか、ホントにイライラしたものだ。私もそれで何度キレたことか。この頃の時代だったら、それよりもさらにカオス状態だっと思う。そういうのにポールは嫌気がさしたんじゃないかと思う。「こいつらと付き合ってたら、俺はどこにも行けない」そう思ったのかも。ポールの成功への野心は大きかったと想像する。

再びRTEのラジオインタビューから。「リスナーからメールが来てるわよ」とDJのおばちゃん。「ポールのコンサートに行って、ある時オーディエスンスが“アーサー・マクブライド〜”と叫んだら、ポールはマイクに向かって“Auther McBride is dead”と言って、絶対に歌おうとしなかった」「ポールの目の前でアーサー・マクブライドと言うと殺されるぞ」と。

ポールいわく「ははははは。確かに一時期そういう時もあったかもね。でもそのくらいしないと僕は伝統音楽を断ち切れなかったんだと思う。そこからしばらくして、最近はもっとリラックスして考えられるようになって、今ではステージでよく歌っているよ」

「よくXファクターとか言うのを聞くけど、いらいらするんだよね。よく1つのファクターで、成功に導かれるというけど、実際には成功のためには4つか5つの事柄が必要だ。まず才能。そして野心。たくさんの野心。そしてものすごい努力。それから幸運とタイミング。それからビジネス・マネジメント。これらが必要なんだ。これらが1つの場所に集まって、はじめて成功が訪れる。それは滅多に起こることじゃない」

「幸運とかそういうものって結局ドアをあけてくれるだけにすぎない。そこからそれを人生の仕事としてきちんと続けて行くかは、自分次第だし、まったく別の話だね」