トミー・ラモーン R.I.P.


昨日届いたBob Lefsetz先生のメールが良かったので、訳してみました。オリジナルの英文は詩的でとても美しく格好いいので、ぜひ英文で読むことをお薦めしますが、英語が分からない、という人のために下手くそながらもトライ。

そしてこれから来日するCJラモーン畔柳ユキさんの応援のためにも…。

プロの翻訳家ではないので間違っているところがあるかもしれない。すみません。
オリジナルの英文はここ

PS
18:55の時点でプロの翻訳家のタッド五十嵐先生より訂正が入ったので、変更してあります。ありがとう、タッド! だいぶ読みやすくなったかと思います。

PPS
21:20の時点で再びマイナー訂正あり。



いったい誰が彼らが全員死んだ後も、彼らの音楽が生き続けると想像しただろう?

間違いなく76年に(レコード店の)エサ箱に入れられた彼らのデビュー作に出くわした人たちは、そんなことは思いもしなかっただろう。モノクロのカヴァーと当時の流行とあまりに対照的な音楽はほとんど理解されないか、ジョークと思われた。

ラモーンズには素晴らしいユーモアのセンスがあったが、彼ら自身はジョークではなかった。彼らはファンだった。彼らは郊外に暮らす者たちの夢のすべてだった。
自分たち特有の精神(エトス)を守り抜き、最後には世界の方が彼らに追いついた。

そう、ラモーンズにはヒットはない。それは事実だ。でも彼ら音楽は現在スタジアムで演奏され、女の子たちは彼らのTシャツを着る。それはすべて、偉大なアーティストたちは計画を持ち、あくまでそれをやり通すという証明なのだ。

ラモーンズはラモーンズはアート・ロック、つまりイエスやジェネシスみたいな大げさな音楽をやらなかっただけでなく、ディスコ・サウンドも取り入れなかったし、決して安易にヒット曲を狙わなかった。らは単に…ものすごくオリジナルだったのだ。

Hilly Kristal(CBGBのオーナー)の功績を認めよう。彼らに演奏する場所を与えた。

Danny Fields(マネージャー)の功績を認めよう。彼らをうまく導いた。


Seymour Stein(Sireレコードの社長)の功績を認めよう。彼らにレコード契約を与え
た。

人の真似をするのは簡単だが、オリジナルな存在になることは、とても大変だ。

トミーは結成当初のメンバーだった。彼が去った後にはすべてが終わっていた、と言う奴もいるかもしれない。トミーはマーキーにドラム椅子を与えた後に「Road to Ruin」をEd Stasiumと一緒に共同プロデュースした。その後バンドは単に彼ら自身である事よりとらえどころのないヒットを模索するようになる。
彼らは最初から彼ら自身だった。彼らは充分に出来上がった自分たちのスタイルをもっ
て現れたと主張できるだろう。デビュー・アルバムは伝説となる"Blitzkrieg Bop"で始
まり、"Beat on the Brat"に切れ間なく続く。それ(「悪ガキをひっぱたく」)がベー
スボールのバットの使い道だ。だよね?


「Leave Home」には歴史的な「Carbona Not Glue」が収録され、退屈して悪さをする若者の気晴らしについて歌っている。

そして彼らの2つ目の代表作品「Rocket to Russia」がリリースされる。クイーンズ出身のバンドがどうやってビーチボーイズを現物よりうまくやることが出来ただろう? 
ジョーイは鼻にかかる声をしていて「Rockaway Beach」には、南カリフォルニアのサーファーたちの曲のみならず、ヒット・パレードの曲の多くが含むよりも、たくさんのフックがあった。なあ、詣でる必要もない地元の溜まり場に寄せた歌とはいっても、地元民のDNAの一部に組み込まれているか?


そして「Rocket to Russia」で、僕らはSheenaはパンクロッカーだったということを知る。「Road To Ruin」には、バンドの極致と言うべき「I Wanna Be Sedated」が入っていた。


人はよくヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファースト・アルバムを買ったものすべてがバンドを始めたと言う。それについては僕も反論しない。でも僕は言う。ラモーンズを買ったものたちの多くが楽器を手にし、グループを結成した、と。ラモーンズが出来るならば、俺たちも出来ると。


特にラモーンズによってニューヨーク・シティで始まったパンクが、アメリカでは何も牽引せず、最初に繁栄を極めたイングランドにおいては、そういう現象が多かったと思う。


田舎の連中のほとんどはパンクをセックス・ピストルズで知る訳だ。しかしジョニー・ロットンやその他は、みんなラモーンズから影響を得ていたんだよ。

ラモーンズはあまりに人生を真剣に取りあつかうべきではない、ということの常に教えてくれていた。歌は2分間は充分だったし、まずは何よりもロックは楽しくなければならない、と。君も楽しさを覚えているよね?

そして今,彼らはすべて逝ってしまった。


僕はウイスキー・ア・ゴー・ゴーで彼らを見たことがある。彼らの名声と比較すると、コンサート会場はいつもけっして大きくはなかった。


トミーには一度会った。びっくりするほど彼は普通の奴だった。多くのミュージシャンと同じように、ヒップな男をきどるところはあったけど、彼は親しみやすく、高校の数学の授業で教室の後ろに座っているような奴らとまったく変わりがなかった。


オリジナルなバンドに乾杯。


飛行機事故で彼らは亡くならなかったかもしれない。でも彼らが死ぬことは、みんな同じことだ。彼らのバンの車内に何かがあったのか? その何かが原因で彼らは短命なのか?

僕らには何もわからない。

だけど最後に笑うのは彼らだ。月日を重ねるごとに彼らの伝説は育ち、彼らは大きくなる。




朝日新聞にも載った。トミー・ラモーンさん死去。ハンガリー人だったんだね。

しかしすごいよね。ラモーンズのアルバムは38年かかってゴールド・ディスクになった。その「ラモーンズの激情」の全曲ライブが、この秋、行われる。

CJユキさんスマッシュさん、応援しているよ!! 詳細はここ。これ以外にも広島や宮崎でも公演があるらしい。

PS
ユキさんのブログもアップされた。