テクニックのくびき

かなり前だけど「テクニックのくびき」というタイトルで、大島豊さんが書いておられたブログがとても興味深く、何度も読んだ。これ、すごく大事なことを言っていると思う。

何が伝統音楽で、何が伝統音楽を伝統音楽たらしめているのか、私たちは何をもってそれを伝統音楽だと認識するのか… 私もいつも考えていることの1つである。答えはなかなか見つからない。

ただ1つ言えるのは…それは、その場では判断できない、という事。ある程度、時間がたって振り返らないと分らない。ある程度、歴史が決めることなのだ、という事。それは言えるのではないだろうか。

私の考え方は、こうだ。その人の後に続く演奏家が出てくれば、その人は伝統音楽を演奏している、と認められるのではないか。良く言えば、その人の意志をつぐ人が出て来た時。でもたいていは単に表面上を真似するプレイヤーばかりなのであるのだが、それでも何らかの形で後に続く人が出てくれば、その人自身は伝統音楽の一部になるんじゃないか、と。

例えばニッケルハルパの復興にウーロフ・ヨハンソンの存在はとても大きい。ウーロフがこの楽器を選んだことで、彼の真似をする人がたくさん後に続いた。そして、そういう状況になれば、多くの人がウーロフを伝統音楽家だと認めるし、ヴェーセンは伝統音楽のバンドだ、という認識になるのではないのか。

では、その演奏家の後に続く人は、いったいどうやったら、出てくるのか。

マーティン・ヘイズが良くワークショップで言う事に「自分の音楽を演奏しろ」ということがある。彼の演奏に驚愕にしてる生徒たちは、どうしたらマーティンみたいに弾けるのか、その秘密が知りたくてウズウズしている。そんな風に弾いてみたい、と言う生徒たちに、しかしながらマーティンのアドバイスは、君のそのままの演奏でいいだよ、と。

そういやパディ・グラッキンは自分はワークショップではフィドルを教えるのではない、って言っていた。音楽の哲学を話してるみたいなことを言ってたな。彼自身、師匠のジョン・ドハティに教わった事は、演奏法ではないと断言していた。練習の間、だいたいは二人で音楽とは何か、と、そういう話ばかりをしていた、と。

パディがドハティを師と呼ぶのは、彼の存在が自分を演奏へとかりたててくれるからだ、とパディは説明していた。決してドハティの演奏法を真似しているわけではない、と。

音楽に対する態度。それは伝統音楽かにとって重要要素だ。そういう意味では日本にアイルランド伝統音楽家がいるのか、という大きな質問には、私は今すぐには答えられない。

でも今でこそあまりなくなったけど,この仕事をはじめたばかりのころは「来日する〜〜の前座やらしてください」「共演させてください」みたいな話をよくもらった。で、彼らは「自分の演奏を、そのアーティストに聞いてもらいたいんです」と言う。気持ちは分らないでもない。でも、なんかそこが違うんだよね。これ、某仲良しのロック・ミュージシャンに話したら、すぐ分ってもらえたけど… 通じない人が多いだろうなぁ。というか、分らない人は多分いくら説明しても分らないだろう。

まぁ、でも私も最近,こういう自分の潔癖性なところはなんとかすべきかな、と思っている。別にいいじゃないか、と時々思う。みんなで楽しくやろうよ、と(笑)。でも、こういう事にこだわりたいんだと思う自分がいるのも事実。この大事な部分を守ってきたからこそ、お客さんの信頼を得て来たことも事実なんだし。

……難しいテーマではあるな。分ってくれる人は少ないと思う。ま、いいや。また機会があれば、もっと考えてみたいと思う。

11月に来日するヴェーセンは革新的なバンドだ。こういう音楽の後に伝統音楽は生き、さらに若いプレイヤーによって生かされていく。

ヴェーセンとヤルヴェラ・ファミリーの一番若い世代、テッポ・ヤルヴェラの共演。伝統だね。とりあえずビスカレのこの音楽はヴェーセンを通じてテッポの世代までは生き続けるらしい。来日情報はこちら