名前がなくなるのが文化?

ちょっと前にヒカシューのバンド名のことが、ちょっとした話題になった。こういう事が起こると、考える。文化とはいったい誰のものなのか…と。

先日、松井ゆみ子さんにアイルランド料理の教室をやってもらうことになり、久しぶりにゆっくり話をする機会も持てて、とても楽しかった。そのことを書いちゃおう。滝野川の料理教室のあと、2回にわたる教室の成功を祝って2人で王子のカフェで明るいうちから乾杯した。今,彼女はちょっと面白い本に着手しているのだが、それは今後、話題になるだろうポテンシャルを秘めた素晴らしい本で、その件についてとてもワクワクしてるんだ、とも言っていた。詳しくは本が出るまでは書けないが、そんな風に2つの文化の架け橋になることは、とても素晴らしい。松井さんのすごい努力あってこそ、と思うわけなのだが…

私が、当日料理教室で松井さんがお話ししてた「肉じゃが」は実はヨーロッパのシチューから伝わった、という話、すごく興味深いねぇと話をふると「素敵よねぇ、そんな風に伝わった人の名前が消えちゃうのがいいねぇ」などと松井さんは話しだした。

知っている人は少ないかと思うが、実は肉じゃがは、ここ100年ほどの料理であり、具体的に伝わったエピソードもちゃんと歴史に残されているが、もともとヨーロッパの料理だったんです。でも多くの人はそれを知らない。伝えた人の名前もエピソードも知らない。肉じゃがは日本に、それこそ何百年も前から日本に存在すると多くの人が思っている。

だから自分の本も、伝える内容だけが残り、あとは自分の名前が消えちゃうのが、いいと松井さんは言った。そんなのが憧れだ、と言うのだ。

うーん、松井さん、偉い。そこが松井さんのすごいところだ。私は実はそこまでの境地になかなか達することが出来ない。それじゃ、いったい私の努力はどこに行くの? こんなに頑張った私へのご褒美は? そりゃー、まぁ、儲からない仕事だってのは覚悟してるけど、多少の名誉くらいは欲しいじゃないの。

例えば伝統音楽のミュージシャンはコンサート中のしゃべりが長い。その理由の一つに、その音楽を誰か書いたのか,そして誰がそれを自分に教えてくれたか…などをきちんと紹介し、先人たちに敬意を払わなくては行けないという事があるのだ。長い公演のMCや、ブックレットの曲解説の賛否両論はともかくとして…

マイケル・ジャクソンが亡くなった時、子供たちはニュースで彼の映像をみてムーンウォークの物真似していた。子供たちはマイケルが誰かまったく知らない。そのことをマイケル・ジャクソンは空の上で喜んでいるだろうか。

いつだったか私がヴェーセンの仕事をしているというのをまったく知らない人が「北欧の伝統音楽を仕事にされているんですか? 北欧といえば、私はヴェーセンってバンドが好きで…」なんていきなり私の目の前でヴェーセンの話をされた時は、確かにちょっと嬉しかった。ヴェーセンが私の知らないところに広まってる、と。

文化とはそういうものでならなくてはいけないんだろうなと思う。でも自分がそこまでの境地に達していないのも事実。っていうか、必死で頑張らないと、あっという間に私が紹介した文化も、バンドもすべて忘れ去られてしまいそうだ。だから、何でもいいから、必死に頑張る。それだけだ。

松井ゆみ子センセの料理本はこちら。



PS
ベランダに植えてるタイタンビカス。今年は3年目くらいなんだけど、すごい勢いだ。去年すでに私の背を越えていたけど、今年はすごい事になりそう! 今年の夏は出張もツアーもないから、すごく楽しみ。

今年は既に3本の大きな枝が出て来た。去年は2本だったのに。

そしてまだまだ出て来る。

これは期待!