「たった1人の生還〜「たか号」漂流27日間の戦い」を読みました

角幡唯介さんの「漂流」に引きずられ、興味を押さえることができず、手にいれて読んじゃいました「たった1人の生還〜「たか号」漂流27日間の戦い」

これって92年の話。私の記憶にはまったくないのだが日本では大騒ぎになったニュースらしい。グアムまでのヨットレースで、転覆し、救命筏で漂流した話。最後に生き残ったのはたった1人。その人が書いたノンフィクションだという。

でも角幡さんの本で漂流した本村実さんもそうだったけど、やっぱり事故に遭う船って、もう予兆があるっていうか… 事故にあうべくしてあっているのような気がするね。もちろん後から振り返って分かる事なのだと思うのだけど、このヨットもあれこれ予兆/心配事だらけで、どうして防げなかったのかという疑問は残る。こんな危ない冒険なのに、100%の状態で出港しているわけではないというのが、まず驚愕だ。先日荻田さんが言ってた「運がよくて一度なんとかなっちゃうと、それを繰り返すようになってしまう」みたいな話が頭をよぎった。あの話には、荻田さんの「プロフェッショナリズム」を見た気がした。そうなのだ。「運が良かった」で切り抜けてはダメなのだ。

本村さんもそうだったが、事故にあうというのは、プロフェッショナリズムにおいては非常にみっともないという話なのだ。それは恥である、という感覚は当事者にとっては絶対にある。もちろん、それが後になって無事助かり、人に「良かったですね」「がんばりましたね」と評価されたとしても。

これは職業を持つ人だったら分かる感覚だ。もっともいったん事故にあったら、見栄やプライドを捨ててでも生き残らねばならないのも事実だが。

で、こんな興味深い記事も発見 → '92グアムレースでの遭難事故から学ぶ

下が失ったもの。
本来ならこれだけの装備もあったわけだ
それにしても大変な漂流だった。7名でスタートしたレース。ヨットが転覆時に船のオーナーが死亡。命からがら救命イカダに飛びのった6名も、信号無線機は紛失(というよりそもそもこの無線機は事前に動作確認さえ取れていなかった)、イカダに常駐してあった非常用の物資もイカダが傾いた時にほとんど紛失という最悪の状況のまま漂流をすることになった。(左の図、参照)

救命筏は8名乗りだったそうだが、狭い中で6名が足を伸ばせるわけでもなく、お尻はただれ足はふやけながらも漂流し、食べ物も水もなく、それはそれは悲惨な状況だった。「無線が無事であれば」「あの時こうしていたら…」と嘆く著者に「もう、“たら、れば”の話はやめろ…」と征する仲間。軍歌を歌ってみんなを励ますリーダー。

そして、やっと! やっと上空に救援の飛行機が飛び見つけてもらえたと思ったのに、実は見つけてもらえてなかったと分かった時の絶望感はひどかった。その絶望があまりにも大きく、翌朝リーダーが亡くなり、そこから数名立て続けに亡くなっている。

最後の2名になった時も励まし合って,抱き合ってなんとか生き残ろうとする。仲間の遺体を水葬にするシーンはホントに泣けた。そして2人のうちの1人がなくなって、ついに著者が1人になった時、仲間の遺体とはとても離れがたかったという。が、遺体の状態が変わってきてしまって、やはり水葬に。

そのあとは、食べようと捕まえた海の鳥に対しては、イカダの中に同じ生き物がいるという感覚を失いたくなくて、しばらくの間、その捕まえた鳥を救命筏の中に殺さず留めておいたのだそうだ。一晩一緒に過ごしたが、翌朝みたら鳥は死んでいた。それを食べる気もあまりせず、多少口にするも、ほとんど捨ててしまう。身体は衰弱して動くことが出来ない。とはいえ、最後の相棒が亡くなってからは、なんとかあの「飛行機が近くに来たというのに見つけてもらえなかった」という事実を、誰かに伝えなくてはという気持ちが強くなり、必死に生きる。が、時々自暴自棄になったり、最期の方はもう意識もはっきりしていない。

そしてやっとのこさ助けられた時のアメリカ船の陽気さや、親身になってくれる病院の下りにはホッとさせられる。人間的であることの、なんと重要なことか。逆に形式にこだわる日本の海上なんちゃらとか、まったくどうにかならんのかなとイラつかせられる。こういう時、一番大事なのは患者の気持ちによりそうことなのに。でも病院が良い病院で、佐野さんが納得できる病院でホントに良かったと思う。佐野さんは、この先生をほんとに信頼していて、先生のコメントを話のあちこちに挿入しているほどで、それはまたちょっとクスリと笑わせたりもしてくれるのだ。あぁ、ホント何度も書くけど人間的であることの本当に重要なことよ!! 佐野さんも書いているけど、人間には愛が必要なのだ。 

そして遺族の方も素晴らしい。佐野さんが遺族に遺体を持って帰れなかったことを謝罪するシーンも泣けた。遺体はすべて水葬にしてしまった。が、ある意味,それは海の男の本望であろう、と遺族たちはいう。

でもホント、辛かったけど、佐野さんが生き残っていてくれたから良かったんだよ。じゃなかったら、自分の大事な家族に何がおこったのか遺族だって分からなくなってしまってたわけだから。隊長の奥さんが最後まで旦那がリーダーシップを発揮していたか、という事を気にされていたという話にもグッときた。隊長は奥さんには「現場にくるな。邪魔になるだけだから」と常に言っていたそうだ。そんなプロフェッショナリズムにも、感動する。(その割にあれこれレースの準備がおいつかず、やはりこれは起こるべくして起こる事故だったのかなとも思う。もしかしたらヨット側ではなくレースの組織の方に無理があったのかもしれないが)

あとリーダーが「俺が死んだらみんなでオレを食べてくれ」ってのも泣けた。(ちなみにこの本の中でも言及されているが、日本人においては事故でサバイバル状況になったとしてもカニバリズムに走ったという記録はないらしい)

そしてマスコミ。本当にマスコミは、どうしようもないな…と思う。今,現代においても、いろんな事件があるたびに同様の印象だが、マスコミというのは人間が匿名になった時にむき出す悪の本性を映し出しているのかもしれない、と思った。佐野さんは、その記者の顔を絶対に忘れない、とこの本でもしっかり書いている。

この本、それにしてもよく書けている。そもそも意識がボーゼンとしてきてしまったせいなのか、最後の方、特に1人になってからは情報が少ない。なので、最初に助かるシーンから始まり、そこから回想していくという本書の構成力は見事だと思った。

最後に私のこの本に対する冷静な評価を書いておこう。確かに起こった事件はショッキングであり、読み物としても充実していると思うが、やはり普段読んでる角幡文学の重厚感と比較すると文章や掘り下げ方の物足りなさはいなめない。角幡さんがこの佐野さんだったら、これをどう書くかな…とちらっと思わないわけではない(読者というものはこのように自分のエンタテイメントの為なら,非常に残酷なことを想像する)というわけで、私としては、事故のショッキング度はこれに比べると低いからもしれないが、また「漂流」に戻ってしまうのであった。こっちの方がやはり今読むべき本である。

しかし想像するにもすごいサバイバル状況だ。そして、こういう時っておそらく1人でも死んではいけないんだな、と思う。シャックルトンも1人も死ななかった。1人死んだら組織は倍、倍で弱くなっていく。だから反対に自分が生き残りたかったから、みんなを生き残らせないとだめなんだな、と思う。1人だけ生き残ろうとしてはいけないのだ、と思う。こういうところ、今の社会問題に照らし合わせても、いろいろ考えることがある。

あとこういうサバイバル空間で生き残るということは精神力も大事だけれども,同時に身体的にいろんな臓器がバランスよく働いていることが重要らしい。病院の先生の話によると、普通はこういう場合、水が飲めなくて脱水症状になり、それが心不全などを引き起して亡くなるというパターンが多いそうなのだ。が、著者の臓器は、最後まで弱りながらもバランスよく動いていた。最後の1名が亡くなってからも10日間も1人で生きていたというのも驚愕の精神力だ。

加えて、生き物を殺して食べることが出来るというのは重要だなーと思った。角幡さんや荻田さんもよく北極であれこれ食べているが、羽根や毛皮をむしって、内蔵を取り出し、どれがレバー、どれが心臓…とか分かる知識は重要だなーと思った。一度、どっかに体験しに行ってみたいとも思った。

それにしても、佐野さん、生きていてくれてありがとうございました。他の亡くなった皆さんのご冥福をお祈りしたいと思います。

いずれにしても昨日もラジオでしゃべったけど、今、こういうものに注目するべき(あ、また「べき」って言っちゃった)時代が来ているのが分かる。時代はサバイバルであり、生死の問題であり、いつ地震が来たり、核爆弾が飛んで来たり、原発事故が起こったり、北極の氷が全部溶けたりするか分からない時代なのだ。

そして今、まさにこの時にも、ヨーロッパに新しい天地をもとめて漂流しているかもしれない彷徨う難民の人たちが、なんとか無事に目的地に到着してくれるよう、祈らずにはいられないのでした。命ってホントに大事。命ははかないけど、ホントにすごい。



PS
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