来日までもうすぐ!:チーフタンズ物語 (12)

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79年、チーフタンズにとって忘れられないイベントが行われます。ローマ法王の前でなんと130万人の観客とローマ法王の前で国の代表として演奏することになったのです。しかもテレビを通じて何千万の人びとが自分たちを見ていると思うと、その緊張もひとしおでした。いつも大らかなマーティンでさえも、この日は緊張のあまり法王と話をすることが出来なかったそうです。

マットが加入するとチーフタンズには新鮮な風が吹き、また新たな時代の幕開けを感じたとパディは言います。マットもバンドの中にとけ込んで行きました。

マットの言葉。「パディのおかげでバンドはかなりうまく組織されていることが分かったな」またバンドのプライバシーの対する距離の取り方にもびっくりしたそうです。カーネギーホールの公演の前にニューヨークで2日間オフがあったのだけど、その間マットに連絡してきたのは誰もいなかったのだそうで「おれたちが泊まったのは素敵な昔ながらのホテルだった。でもそのオフの2日間、おれが生きているのか死んでいるのかも誰もわからないじゃないか」とマットは驚きを隠せません(笑)

デレクは「ツアーは本当に正気の沙汰ではないんです。まるで家畜の群れのように飛行機で次の街まで運ばれていきます。それを3週間も続ければ、気がへんになって当然ですよ」と話します。一方でツアーに出て一番幸せなのは,実はマーティン・フェイ。「幸いなことに私は旅が好きなんだ」とたばこを吹かしながら、のんびりと話します。いいなぁ、おおらかなマーティン。

そうそう、バンドの中で唯一の喫煙者マーティンは来日してもメンバーの楽屋ではなく、プランクトンの川島さんや落合さんのいるスタッフ部屋にやってきて良くタバコをすっていました。2人とマーティンはとっても仲良しで、とっても楽しそうだった…。今ではチーフタンズの楽屋は徹底禁煙。楽屋から何から灰皿もすべて撤去しないといけないので大変なんですが、90年代のチーフタンズはそんな感じでした。その後、マーティンは残念ながら2012年に亡くなってしまいます。ご冥福をお祈りいたします。天国で好きなだけプカプカしてくださいね!

さて話をまたチーフタンズの歴史に戻すと、チーフタンズは再び次なる作品の制作に取りかかります。ここで登場するのが、エンジニアのブライアン・マスターソン!! アイルランドNO1のサウンド・エンジニアです。写真がないかな…と思ってネットを探しまわったら、若い時のが出て来た(笑) 今、ブライアンはアヌーナのエンジニアとしても有名ですね。先日の「鷹姫」の時、オーチャードホールで素晴らしい仕事を披露してくれましたが(私もそこで初めて一緒にお仕事しました)ホントに素晴らしい人です。

ブライアンをエンジニアに迎えたチーフタンズは「Boil The Breakfast Early (The Chieftains 9)」の制作に取りかかります。この作品はマットとケヴィンを大きくフィーチャーした作品になります。チーフタンズは80年代に向けて新たな1歩を踏み出したのでした。

マットがフィーチャーされたこれなんか最初の2分、まるでルナサみたい❤ 



そして80年代。それは誰にとっても、この人の死で始まります。80年12月、ポール・マッカートニーはパディに電話してきた「レインクラウド」という新しい歌のためにイーリアン・パイプのトラックを録音してくれないかと頼んできます。これは「エボニー&アイボリー」のB面になる曲でした。実はこの日、パディは旧友のガレクの結婚式に出席予定でしたが、相手がマッカートニーでは断るわけにもいきません。そんなわけで8日の早朝、ロンドンへ飛ぶ最初の飛行機の乗ったパディは、ジョン・レノンがニューヨークのセントラル・パークで打たれた、というニュースを聞きます。 パディが73年に「チーフタンズ3」を録音したエア・スタジオにやってくるとジョージ・マーティンはすでにそこにおり「僕らはただそこに座りこんでジョンが殺されたことは恐ろしい事だと話したりしていたよ。そしてジョージ・マーティンが歌の途中に入れるための僕の演奏16小節を録音した」

「その時ポールが入ってきたんだが、彼はひどい状態だった。ポールが言うには朝から報道関係者が家をとりまいて家にいるとあまりにしつこいので抜け出してきたんだと話していた」「僕らはジョンのことをおしゃべりした。そのうちリンダが入ってきて、泣いていたのを覚えているよ。それはそれは何とも言えなかったな。その頃には大勢のミュージシャンやポールの友人たちがスタジオにやってきた」
 「後になってジョンが殺された直後にスタジオ入りしたポールに異常だと言う人がいたが、じゃあ他にいったいどうしようがあったっていうんだ」

一方ガレクの盛大な結婚式は翌年まで延期され、パディは「ガレクの結婚」という曲を録音して曲を結婚式で流したそう。(この曲は「The Chieftains 10」に収録されています)



そしてこの曲を取り上げ始めたのもこの時。「Cotton Eyed Joe」アメリカのカントリー・ミュージック。こちらはリッキー・スギャックスとのトラック。



アメリカのツアー先のジューク・ボックスで初めて「Cotton Eyed Joe」を聞いたパディは自分の耳が信じられなかったといます。古い伝統曲のアイリッシュ・リール「Mountain Top」に似ているだけではなく、子供のころ祖母が歌っていた「父さんのシャツを洗ったかい」にも似ていたから。「あの2つが同じ曲で、アイルランドから海を渡ったものの1つらしいことはすぐわかった。それを聴いてから僕はすばやくアレンジしてデレクにピアノで弾かせた。そしてその晩のコンサートで演奏したのさ」演奏が大受けだったのは言うまでもありません。そしてアメリカから戻って1週間後、チーフタンズはこの曲を録音するわけです。アメリカとアイルランドのリンク! 太平洋がつながった。

80年代になるとパディはだいぶチーフタンズの運営にもリラックスするようになってきました。そしてその夏、UB40、スクイーズ(スクイーズ!ですよ/笑)、ポリスといったイングランドのグループが出演するアイルランドのフェスティバル(マイルス・コープランドのプロダクションだったんでしょうか…)に参加したチーフタンズはそこでスティングとセッションすることになります。パディのティン・ホイッスルに、すぐスティングは古いハープシコードで応戦し始めたんだって。古いバッハやモーツアルトを引き出したスティングにパディも負けじとホイッスルで応戦。そしてそこにスチュワート・コープランドやアンディ・サマーズも加わったそうで、あまりにセッションがもりあがってポリスは次のツアー先に飛ぶのも忘れ、気づいた時にはスティングの泊まる部屋がなかった(爆)

パディの娘のエイディーンは自分はパパの部屋に泊まりスティングに自分の部屋をゆずったそうで、そのことを新聞に書いたら、気をきかせたつもりの編集者が「私のベットで寝たスティング」というタイトルを付けたのだそう(笑)

81年になるとチーフタンズは「フランス人の年」とテレビシリーズの音楽をRTE交響楽団と手がけます。そしてデレクの「Playing with himself(デレク・ベルのひとり遊び)」もリリースされました。(これ日本語タイトル、この本で訳を担当した大島さんが付けたのかな? 上手いな〜)

このタイトルっていたずら好きのガレクが考えたんだって… デレクいわく「冗談だと思ったんだけど、僕が笑ったのをガレクはOKと取ったようです」とのこと。デレクは「尼さんは誰もこのレコードを買わないでしょうね。僕はいつも修道女の人たちに人気があるんですが」と話している。

このジョーク、分かります? これマスターベーションのことを言っているんです。そういうったことを想像させる卑猥なタイトル。デレクいわく「『デレクベル八種の楽器のひとり遊び』というタイトルも候補にあがったんですが、どうも気に入らなくて、もとの方が響きがいいんですよ」

この頃のチーフタンズの演奏。81年ケンブリッジ・フォーク・フェスティバルにて。



こんな風に常に仕事中毒のパディだったけれども、その年のクリスマスはやっとゆっくり休めたんだって。ミサに出かけ、ゆっくりと家族だけですごす。そして伝統に従い、サンタクロースのために夜、ビスケットとスタウトを用意して眠るのだそうです。サンタクロースは「サンティ」と呼ばれモローニ家では、今だにその存在が強く信じられているらしい。

83年の夏にはダブリン郊外のスレイン城で83,000人を集めたストーンズの公演の前座をチーフタンズが勤めます。このときのツアーの前座は基本J・ガイルズ・バンドだったけど、この日だけはチーフタンズの伝統音楽で幕をあけたいとミック・ジャガーが強く望んだのだそう。ケヴィンはチャーリー・ワッツにバウロンをプレゼントしたという。チャーリーは数年後お礼にバードウォッチングドの本をケヴィンに送ってよこしたんだって。「チャーリーはとことん紳士だよ」とケヴィンは言います。「でもまだバウロンのコツはつかめないみたいだ」

マットはストーンズはデビューした当時からファンだったそうなので、すごく興奮したそうです。大盛り上がりのチーフタンズの前座をパディは「コットンアイドジョー」でしめると、ストーンズのステージ袖でフィル・ライノットと一緒にウィスキーを飲みながら音楽を楽しんだそう。2人はダブリンの音楽仲間だった。この数日後、フィルは薬物の過剰摂取で悲劇的な死をとげるのですが…。「フィルにあったのはあれが最後だったな…」

その数週間後、リスドンヴァーナ・フェスに呼ばれたジャクソン・ブラウンはついに憧れのチーフタンズと直接会う機会に恵まれたのでした。ちょうど「孤独なランナー」がヒットしていた時期。「パディと僕はついにリスドンヴァーナで会うことが出来た」「僕らは[鳥とゆりかご] という歌、あれは古いアイルランドの伝統歌だと思うのだけど、それをぼくら風にアレンジしてやったんだ」そしてジャクソンはパディをこれからやるハマースミスでの公演に誘います。「面白いことにパディが参加するのはたいていのミュージシャンが参加するという事とはレベルが違うんだ。パディは伝統音楽の膨大なレパートリーをもっていて、あれはただジャムってるというのではないと思うのだが、伝統的なメロディをコンテンポラリーな音楽にいくらでもあてはめることができるんだ」「パディはものすごいエネルギーをもっているし、ユーモアのセンスもすばらしい。とんでもない推進力がある。ほんとうによく働く。いっしょにいると実に楽しい」

そしてこの年、パディはギネスのテレビ広告キャンペーンにも着手します。そしていよいよ83年、歴史に残るすごいプロジェクトが始まるのです。それが「チーフタンズ・イン・チャイナ」いよいよ西側のバンドとしては初めての中国へ進出です!

(13)に続く。


チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。

11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール 
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール