来日までもうすぐ!:チーフタンズ物語 (15)

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89年1月、チーフタンズはついに正式に国からアイルランドの音楽大使に任命されます。そしてその年の3月、まだ18歳だったジーン・バトラー(のちにリバーダンスのソリストとなります)をともなった初のツアーが始まろうとしていました。一行がアメリカに着くと、待ち受けていたチャールズ・カマーはものすごい量のパブリシティを打ち上げます。そして「ケルティック・ウェディング」と「アイリッシュ・ハート・ビート」がグラミー賞にノミネートされたことを宣伝したのでした。しかしチーフタンズが実際の受賞にいたるまでは、まだあと3年かかることになります。

そして5月、マット・モロイはウェクスフォードにパブ「マット・モロイズ」をオープン。友情に厚いチーフタンズのメンバーはGET BACKよろしく屋上でセッションを披露します。パディによると始めは中で演奏する予定だったんですが、人があまりに集まりすぎてしまい、こういう結果になったのだそうです。

パブがオープンしたてのころ、マットの奥さんのジェラルディンは週60時間、ノンストップで働いたんだって。今やこのパブはチーフタンズ・ファン、アイルランド音楽ファンの聖地になっています。私も何度か訪ねていますが、マットがいれば、マットも奥さんもとっても引き止め上手。ついついパブの扉を閉めたあとも朝まで弾けちゃう(笑) ジェラルディンさんは実は癌で2008年に亡くなったのですが、私も日本のチーフタンズのスタッフもここへ訪ねていけば、本当に彼女にたくさん良くしていただいたものでした。ありがとう、ジェラルディンさん。そして実は、マットのお家は、その5年後、今度は娘さんのクレアがやはり癌でなくなるという悲しい運命が待ち受けていて、ホントに人生は誰にとっても辛いな…と思うのですが、でもマットは2年くらい前に再婚して、今は素敵な若い奥様がいらっしゃるのよ、会ったことないけど!! っていうか、うらやましーーっっ。私が立候補したかった!!

話がそれました。明けて90年1月。チーフタンズは再びジェイムス・ゴールウェイと大きな共同作業にとりかかります。スコットランド音楽とアイルランドの音楽のプロジェクト。「海を越えてスカイ島へ〜ケルトの絆」と名付けられたこの作品についてパディは「14マイルしか離れてないんだよ。アトリムとスコットランドのマル・オブ・キンタイアは」 と説明します。

泣けるぅ〜



一方でパディはチャールトン・ヘストンとオリヴァ・リード主演の映画「宝島」のサウンドトラック制作にも着手します。ここで若いカルロス・ヌニェスを初めて起用することになります。カルロスは8歳の時からチーフタンズの大ファンでアルバムは全部聞いていたと言います。「僕の音楽上のヒーロー」とパディを呼ぶカルロスは、なんと13歳の時に自分でパディに電話をかけて「あなたの音楽が好きです」と伝えてきたんだって。すごいですね。そしてその3年後、ロリアン・フェスでやっと直接会うことが出来たというカルロスとパディなんですが、パディはそこでカルロスの演奏を聴き、すっかり気に入ってしまったといいます。そしてガリシアの野外フェスで両者はついに共演を果たしたんだって。パディはまたここでオーストラリア出身のスティーヴ・クーニーが演奏するディジリドゥーをも取り込みました。新しいアーティストをどんどんシーンに紹介していったんですね。

一方で、89年のベルリンの壁の崩潰から世界は新しく劇的な幕開けを迎えることになったわけですが、このベルリンの壁の崩潰を祝い、ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズは[ザ・ウォール]の演奏を企画。ここに多くの文化のミュージシャンを集めることになります。この時ウォーターズが企画を任せたスタッフの1人にチーフタンズのかつてのマネージャー、ピート・スミスがいました。さっそくヴァン・モリソン、マリアンヌ・フェイスフエル、シネイド・オコナー、ブライアン・アダムス他のアーティストにまじってチーフタンズも呼ばれ30万人の観客の前で演奏。この件がきっかけでピート・スミスは再びマネージャーに返り咲き、ここでチーフタンズをさらに世界の舞台へより大きな成功に導く為のチームが再結成されたのでした。パディは映画音楽のコンピレーション「リール・ミュージック」というコンピレーションを発表しつつも、重要なのはやはりチーフタンズの新作です。

そしてチーフタンズのクリスマス・アルバムを豪華ゲストで制作しようという案が打ち出されるわけです。クリスマスのアルバムを、というのはパディのアイディアでした。数年前にポール・アンカに会って話した時に、ポールが毎年開いているクリスマスのコンサートにヒントを得たのだとパディは説明します。「われわれのアイディアを実行に移す,パディの能力には本当に感心しました」とピート・スミスは回想します。そして「ベルズ・オブ・ダブリン」の制作が始まりました。パディはダブリンのクライストチャーチの鐘の音を収録することに拘り、ここでもブライアン・マスターソン御大が(笑)、勇敢にもバルコニーに乗り出し、マイクを設置することに成功したのでした。

そしてさっそく豪華なゲストが集められました。ケルト風味の「スパイク」というアルバムをリリースしデレクをゲストに呼んでいたエルビス・コステロ、リッキー・リー・ジョーンズ、マリアンヌ・フェイスフル、ナンシ・グリフィス。そしてジャクソン・ブラウン。

ジャクソンはギリギリまで曲が決められず本当に悩みます。とうとうある友人と宗教の話をしている最中に「実は…」と自分の悩みを打ち明けたのですが、その友人が「君はソングライターじゃないか。自分で作ればいいだろう」とアドバイスしたため、たった1日で名曲[反逆者イエス]を書いたのでした。パディはもちろんこの曲がたいそう気に入ります。イエスが今現在も生きていて、今の商業主義にみちたクリスマスをみたらきっと反旗を翻すだろう、という内容を歌ったジャクソンらしい歌です。パディはいいます。「あの曲はアルバムのどの曲とも違う、新しいクリスマス・キャロルだ」



「ベルズ・オブ・ダブリン」は世界的にも大変なヒットとなっていきました。(95年までにセールスはアメリカだけでも50万枚を記録しています)

ところでこの頃、ヴァン・モリソンはデレク・ベルに自分のバンドに来てほしいと熱心に誘っていました。デレクの回想。「お前はモローニの言いなりなって自分の人生を無駄にしている、マットもショーンもお前を利用しているだけだ、と言うんです。お前は事をなすだけのガッツがないんだ、とも。そこで僕は答えました。そういう見方は認められませんよ、と返すとヴァンは俺を誰だと思っているんだ、お前は底辺だ、もうお前とは話ができないと言うんです」ヴァンがドアをばたんとしめてしまったので、デレクはその日2マイル歩いて自分の家に帰る羽目になったのだそうです。でもヴァンはまた次の日けろっとデレクのところに連絡してきたりしたのでした。「ヴァンは恨みを残さないんです」とデレク。

パディはヴァンがデレクを誘っていたことを知っていたそうです。「ヴァンはデレクがチーフタンズを見限って自分のところに来るべきだと思っていたんだね」

91年、チーフタンズはロンドンで自ら主催する1週間のフェステイバルを打ちたてます。そこに豪華なゲストを招くことにしました。フーのロジャー・ダルトリー、アズテック・カメラのロディ・フレーム、ポーグス他、豪華なゲストが並びます。中でもこの人がアコースティックな編成をバックに歌うということで、みんなの度肝をぬきます。



しかし、かっこいいですよね! なんつーか、トラッドにドラムをいれるとか、そういう安直方向に行かなかった、チーフタンズ、さすがだと思う。ロックとのコラボなら、こういうのじゃないと。本物じゃないと。

そしてこの成功をみていたアルスターテレビが独自のテレビ番組をチーフタンズに持ちかけます。これがBMGからリリースされる「アイリッシュ・イーヴニング」のCDになったのでした。ダルトリーは語ります「今日はオレとしてもとても楽しい。ロックンロールを伝うのと伝統的なアイリッシュミュージックを歌うのとでは、まるで話が違うからだ。あと2、300年もすると、ザ・フーの歌が伝統的なロックンロールの歌として演奏されているんじゃないかな」

パディ「ロジャーは素晴らしくて,あのコンサートはおおいに気に入ってくれた」「これから死ぬまでチーフタンズと一緒にツアーしていたいと言っていたね」

(16)に続く。


チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。

11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール 
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール