映画「エヴェレスト〜神々の山嶺」、夢枕獏「神々の山嶺」、そして角幡唯介「旅人の表現術」

映画「エヴェレスト〜神々の山嶺」を観た。フィンランドに行く機内放送にて。

この映画の存在は知っていた。でも原作が夢枕獏ってのも、なんだかな…と思っていた。夢枕獏とかいって1冊も読んだわけでもないのに、私の中ではエンタテイメント作家や漫画の原作と認識があり、時間を裂いてまで読む必要がある本を書いているとはとても思えなかったのだ。すみません。

で、映画はそれなりに展開が面白かったが、スポンサー(モンベル)の露出がしつこいのが気になる上に、女の存在は意味ねぇーじゃんと思った。もっとも男優2人の演技は圧倒的に素晴らしく、良い仕事をしていると思った。1人はジャニーズの人だよね、確か。ものすごい演技で、それには、かなり感動した。が、それも最後の妙に劇的でドラマチックなオーケストラの音楽が流れる雪山のシーンや、 執拗に何度も流れる羽生(はぶ)の最後のセリフの連呼で「誰もがこんな気持ちで山登ってんじゃないだろ」と私はすっかりしらけてしまい、そのまま寝ぼけた頭で飛行機を降りたのだった。

帰国して、ネットでこの映画の感想をググってみたいのだが、原作が好きだった人からは酷評の嵐だったらしい。

 

ストーリーはこうだ。ヒマラヤでカメラマンの深町は70年前に遭難した英国人探検家マロリーのカメラではないかという代物に遭遇する。マロリーはエヴェレスト登頂の際に遭難し遺体はまだ見つかっていない。マロリーが遭難したのは、実は頂上を踏んだ後ではなかったのか、という大きな歴史上の謎を追い、盗まれたマロリーのカメラを探していた深町だったか、その流れで行方不明になっていた伝説のクライマー、羽生(はぶ)に出会い、次第に深町はマロリーのカメラそっちのけで、羽生の人生に引きつけられて行く。山に魅せられた男たちの圧倒的な物語。

エンディングは残念ながらしらけてしまったものの、映画の中で印象に残った言葉があった。「何故山に登る?」という問いに対するマロリーの有名な言葉「そこに山があるから(because it's there)」を、「違うね、それはここにおれがいるからだ」と言った羽生の言葉だ。でも、なんだかこれに既視感があって、もしやと思い、角幡さんの著作にこの話についての何か記述があるのではないかと探してみた。そしたらありましたよ。「旅人の表現術」にこの映画の原作本に関する記述がありました。そうか、このエッセイを読んでいたからか…。角幡さんもこの「ここにおれがいるから」に深い考察を寄せているのだが、このエッセイがめちゃくちゃ面白い。角幡さんのエッセイを再び読んで、再び感動。やっと夢枕獏の原作が読みたくなった。

さっそくAmazonで売っているのをポチって読んでみた。角幡さんのいうとおり、あまりに面白くて、あっという間に読み終わってしまった。なんというか、非常に読みやすい。っていうか、まずパラパラとページをめくってびっくりした。こんなに改行があるんだ、と(笑)

改行なくしたら本のページ数は半分以下になりそうだと思ったけど、改行がないとこういう臨場感は出ない。うーん、こういうのが読みやすくさせるための流行作家のテクニックなのか…と思いつつ、そして確かに読み始めればめちゃくちゃ読みやすく、大ベストセラーになったのはとてもよく理解できる。かつ「歴史上の謎」(マロニーのカメラ)が読者をひっぱる感じが、角幡さんの名著「アグルーカの行方」にも通じるかも、と思ったり…。

でも、残念ながら、私にとっては、何となく読者サービス的に挿入される出来すぎたエピソードが、ちょっと自分の好みとは違うかなと思った。(時々羽生がみせる超人的な体力や、女が誘拐されるところなど)なので、この本については、特におすすめしない。なんだか無駄に長いし、もっと短く出来ただろうと思う。あえてエンタテイメント的な時間つぶしが必要な場合以外は、長い時間をかけてこの本を読む必要はまったくなく、この小説のエッセンスがしっかり紹介された角幡さんの「旅人の表現術」に収録されている長くないエッセイ『「ここにおれがいるから」普遍的山岳小説の視点』を読んでほしいと思う。

とか、書いちゃうと、この原作について否定的に取られるかもしれないので、再度強調しておくと、これは超一流のエンタテイメント本である。夢枕獏さんも相当力を込めて書いたんだろう。最後に収録された妙に力のこもったご自身の後書きを含め、なんかすべての気持ちや自分の調べたありとあらゆる事を投入した感はものすごくある。読んでいてすごく楽しいですよ。それは間違いない。

あ、あと、もう1つ。角幡さんがエッセイに書いてない事で、結構ぐっと来たのは、本の最後に紹介されているオデルの言葉だ。オデルは、遭難直前にマロリーとアーヴィンが氷壁をのぼっていく様子を目撃していて、これが「もしかしたらマロリーは頂上を踏んでいたのではないか」という歴史上の謎を引っ張っているのだが、オデルは彼自身も強靭な登山家であったに違いないのに、しかし歴史は彼を登山家ではなく彼を目撃者として選んだ、という事について、こんな彼の事を語っている。そのオデルの言葉が、なんとなくこの本を読んだ読者に一種の落としどころというか安堵感を与えていて、これはさすがだと思った。

「人は誰でも役割があるのだということです」

「幸か不幸か、歴史はわたしをエヴェレストの登頂者としてではなく、マロリーとアーヴィンの最後の目撃者、証言者として選びました」

「よく考えてみれば、あれは(氷壁をのぼるマロリーとアーヴィンの姿は)私の姿なのです、そしてあなたのね。この世に生きる人は、全て、あのふたりの姿をしているのです。マロリーとアーヴェインは、今も歩き続けているのです。頂にたどりつこうとして、歩いている。歩き続けている」

「そしていつも死はその途上でその人に訪れるのです」

いいでしょ? 必死で氷壁にくらいついても、結局は雪崩が起きたり嵐が起きたりして突然、死は自分のところに理不尽にやってきてしまう、と。 「死を思え」じゃないけど、いいよね、これ。この言葉、覚えておこう。そして「何をなしとげようとしたか、ということがその人の人生だ」ともオデルは話している。

他にも夢枕獏氏が、羽生にいわせてる言葉が妙にいい。角幡さんが書いているように、夢枕さんは羽生に理想の登山家を描いたんだと思う。例えば羽生が雑誌に寄せたという文章。これがグッと来る。「頂が神聖であるから、人が憧れるのではない。人が、魂の底から憧れるから、そこが神聖な場所になるのである」とかね。

毎度毎度思うのだが、自然はすごいよ。自然はホントにすごい。山もすごい。あと犬がすごいとか、ゴリラがすごいとか、いろんな話がある。でもやっぱりすごいのは、人間だ。人間は本当にすごいのだ。体力や命なんかは、もう吹けば飛ぶようにはかないのだが、人間の想像力。思う力。考える力。それは世界1すごいのだ。

それにしても、本はそうやって素晴らしい箇所がいくつもあるのに、映画はまったくもって残念だったとしかいいようがない。本から、このエンタテイメント性に溢れた動きのあるエピソードのみを引っ張って、それをなぞって作ったのだろうか、脚本に芸がなさすぎである。かろうじて「ここに俺がいるから」は省かれなかったものの、他の大事なところが全部抜けている。これでは原作にはあった、登山家の山への気持ち、引いては人間の生きることの難しさみたいなものがまるで描かれていないではないか。しかもこの映画、例のクラカワー原作のエヴェレスト映画と同時期にリリースになったようで、それもなんかなぁ、という感じだ。クラカワーの方の映画も、そういえばまだ見ていないが、あの本は最高に素晴らしい。また何度でも読みたいと思う。映画はどうなんだろうか。まぁ、いつか観る機会も出来るだろう。

ジョージ・マロリー
ちなみに実際のマロリーの死体は99年に発見されていて、ネット上で写真も見ることが出来る。カメラは発見されていない。こちらがナショナル・ジオグラフィックのレポート。それにしても北極や南極の冒険でもそうだったけど… 100年前の英国人探検家たちはやっぱりロマンチックで素敵すぎるわ…。次は彼の伝記本でも読んでみようかしら。

ちなみに前にも紹介したと思うけど、エヴェレストは現在、商業登山がメインで、探検の場でも何でもなくなっている。お金さえあって、人並みに健康であれば誰でも「あげてもらえる」。

一方で、私にはこうやってたびたび「なぜ生きているのか」を考える時間が必要だ。そしてなんとなく自分の中に眠っている「登山家性」「山屋性」みたいなものに気づいちゃったりもしている。

人生には雪崩がおきて、何もかも流されちゃう可能性があるというのを、常に私も覚えていかねばならない。あ、そうそう、小説の中の「地球を踏んでいる」って言葉にも、ちょっとグッと来ちゃったな。世界の頂上まで行けば「オレの下に地球がある」って、そんな気持ちになれるのだろうか。やっぱり探検家になろうかな…オレ、とまた思ったりしている。いや、ありえないけど(笑)



PS
とか書いてたら、こんな連載が! それにしても早く角幡さんの書いた文章が読みたいんですけど…