来日までもうすぐ:チーフタンズ物語(8)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)からの続きになります。まだまだ70年代の話が続きますよ。この連載って20回シリーズなんですが、本当に終るんでしょうか…(笑)


さぁ、チーフタンズの世界進出が始まります。ただそこにはホントに葛藤があり苦労があったのでした。その年、チーフタンズがアメリカに旅立つ2週間ほど前。「アイリッシュ・タイムズ」紙にパディの長いインタビューが掲載されました。そこでパディは強調します。

「いまだに人々はアイルランドを“お母さんが生まれた国”程度にしか考えていない。僕らの発散するアイルランドのイメージは完全に別のものだ。アイルランド音楽は世界でもっとも偉大な音楽なんだ」と。つまり移民が多いからとか、アイルランドの懐かしさとか、観光っぽいものよりも音楽そのものを受け止めてもらいたい、ということなんだと思います。これ、すごく分かりますね。アイルランド音楽の「観光っぽい」「チーズくさい」ノスタルジーなイメージを払拭しようと最初に頑張っていたのはチーフタンズなのかもしれません。そう、アイルランド音楽は今を生きる、かっこいいものなんです。そしてポピュラー・ミュージックとも対等に評価されるべきパワーを持っている。それをパディは伝えたい。

マネージャーのジョー・ラスティングもこういったパディの考え方には共感し、チーフタンズの最重要課題はアメリカ制服だと考えてきました。「だから私は普段エスニック・ミュージックを手がけてない普通の音楽ジャーナリストたちに声をかけてきた」と言います。紙媒体へのさらなる露出のためジョーはチャールズ・カマーという大物PRマンを雇います。ビートルズの最初のアメリカ・ツアーで渡米して以来、チャールズはアメリカの多くの媒体の人気者でした。チャールズとパディのタッグはものすごかったと多くの人が回想します。あるツアーでは、なんと89本ものインタビューを受けたんだって! 確かに今でも若いミュージシャンが来日すると1日8本x3日とかやる時あるけど、89本はすごい。プロモが終るとパディどころかチャールズまでもが声がかれて出なかったくらいなんだって。すごいですよね。(なんか、このヘンの下りは、今、音楽の宣伝で働く私にも非常に響くものがあります…)

また当時のチーフタンズは、政治的な発言も要求されていました。パディはここでも非政治的な立ち場をつらぬき、伝統音楽には一切の宗教的障害がないことを説明したそうです。(確かにこの時期、一般の人のアイルランドに対するイメージは「テロリスト」だったと思います。現在の中東への偏見とちょっと似ているかも)「僕らのコンサートにはプロテスタントもカトリックも来てくれている。それを僕は素晴らしいことだと思っている」

メンバー中唯一のプロテスタントであるデレク言います。「友人から“なんだ、カトリックの音楽か”と言われましたよ。いや、冗談ではありません。その友人はフルートではなくハープを弾く人間はカトリックであると固く信じているんです。南部でこんな偏狭な態度に出会うことは絶対にないでしょう。こんな人間には何度となく遭遇しているし、そのたびに彼らの考えを正しています。僕らの音楽はふたつの教会のどちらとも完全に無関係なんだと指摘してね」

アメリカ大陸を彼等は席巻していきます。チーフタンズが根強いファンを獲得したのはこの頃だと評価する人が多い。ロックやポップスがつまらなくなった…と考える人の中で、彼等の音楽は1つの涼風でもありました。

しかし売れれば売れたで大きな弊害が出てきました。あまりに過酷なツアーでメンバーたちの気持ちは疲弊していきます。「あのころのチーフタンズにはすごいプレッシャーがかかっていたんだ」「ツアーにはひどい緊張がつきものだし、それはどのグループでも同じだ」ついにパディとメンバーは3週間以上のツアーは絶対にしないという規定を設けることになりました。

バンドの精神衛生を気遣い、パディはジョーにツアーの延期を申しいれます。オセアニアのツアーは翌年に延期になります。ところがダブリンでの休暇に入ったメンバーにすごいニュースがもたらされます、それは「メロディ・メーカー」の読者投票でした。ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンを押さえグループ・オブ・ザ・イヤーに輝いたのはチーフタンズだったのです。賢明に働いた15年間。チーフタンズはついに世界から認められた、と言って良いでしょう。しかし、こういう外からイケイケだと思われてる時期に、バンド内部はボロボロってよくあるパターンですよね… チーフタンズも例外じゃなかった。

翌年76年もチーフタンズにとってはすごい年になりました。映画「バリー・リンドン」が公開され、印象的なサウンド・トラックは大変な注目を集めたのです。



ジャクソン・ブラウンは、ロサンゼルスでこの映画を観て、その音楽に深い感動を覚えたそうです。「かれらの音楽を僕はとても美しいと思った」そしてLAで行なわれたチーフタンズの公演に友人を誘って足を運んだのだそうです。彼等が共演するのは、もうしばらく後ですが、それはジャクソンにとって大きな体験だったに違いありません。

そしてチーフタンズはニューヨークへ飛び、今度はカーネギーホールでアイルルランド人のスターたちが勢揃いしたイベントの主役をつとめることになります。しかしこの躍進ぶりとは反対に、マネジャーのジョーと、そしてメンバーと軋轢が深まって行くことになるのです。3週間のツアーをブッキングしたというジョーにメンバーは大反対に反対します。この辺の下りは読んでいても非常に辛い。

後になってメンバーは、ジョーの努力がある程度バンドを成功に導いたとしていますが、マネージャーにとっては苦労して取って来た仕事を断られることほど辛いことはありません。この時はキレまくったでしょうね。想像できますわ…ホント。

一方でパディとPR担当のチャールズも、ものすごい勢いで働きました。チーフタズのツアーの4、5日前にパディがローカルなラジオや新聞の取材を受ける、そして会場を満杯にする、という最強のタッグが組まれたのだそうです。

アイルランドに帰ったら帰ったで今や高額納税者になったのでは?という好奇の目にメンバーはさらされることになります。パディは新聞のそういった質問に答えて話しています。「全然だよ。メンバーが7人もいたら入ってくるお金はたかがしれている。数年前にフルタイムのプロになってからはそこそこの暮らしをしていると思うが、誰も金持ちになんかなっていないよ」と答えています。(そういやマットがいつか言ってたなぁ。ホントの意味で楽になったのは「ロング・ブラック・ヴェイル」からだ、って。そこまではホントに大変だった、って。チーフタンズも決して楽して成功しているわけではないんですよね。ホントにみんな苦労しているんです。若い子はよく最短距離行きたがるけど… いや、ホント感慨深いです)

そして再びダブリンに戻ったメンバーにアート・ガーファンクルのレコーディングの話がもでちあがります。最初2日間の予定でダブリンにやってきたガーファンクルでしたが、最終的には1週間も留まり、充実したレコーディングとなりました。

この美しいトラックを貼っておきましょうかね…



一方でジョー・ラスティングとバンドとの軋轢は非常に大きなものとなっていきました。お金の前にはジョーがたちはだかり、チーフタンズの全収入から25%を取っていきます。その後、メンバーは残った75%から経費を払うのですからたまりません。何度となくパディはジョーとやりあうのです。ホテル代はお前が払え、その経費はお前持ちだ、と…

一方で、既にチーフタンズのスケジュールは先の先まで入ってきています。ヨーロッパと2度目のオセアニアが決定し1年のうちチーフタンズは半分をツアーですごすようになっていきます。そして、この頃、60歳をむかえたパダー・マーシア(バウロン)がメンバーを離れます。マーシアの代わりとなるバウロン奏者を見つけないといけなくなったパディは、これまでよりも大きな気合いのはいった新作「ボナパルドの退却」に取りかかっていました。ロンドンでの録音開始1週間前に、パディは数年前に出会っていたケヴィン・コネフという青年のことを思い出しました。

こんなの見つけた! 



いよいよ次回は今回の来日でも素敵なテナーを聞かせてくれるケヴィンの登場。そして「チーフタンズ5」こと超名作「ボナパルドの退却」の登場です。


チーフタンズの公演チケットは今週末行なわれる10月9日の「秋のケルト市」でも購入いただけますよ。アイルランドの音楽、文化、カルチャー、食が集合したイベントです。豊田耕三さんのホイッスル・ワークショップなど盛りだくさん。是非ご来場ください。詳細はここ

(9)に続く。


チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール 
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール