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2017年9月15日金曜日

来日までもうすぐ:チーフタンズ物語(2)

チーフタンズ物語。第1回から続きます


さて大富豪のガレクの生活ですが、当然ながらリフィー側の北側に住む陸軍下士官の息子のパディのそれとはだいぶちがっていたんだそうです。ガレクの家はアイルランドでももっとも最上級の上流階級に属していた。本人によるとだいたい15歳頃からガレクはアイルランドの音楽にのめり込むようになったんだって。何故?と聞かれてガレクは「わたしの耳がそうだったとしか答えようがない」と回答。当時アイルランド音楽は決して「クール」なものではなかった。しかしガレクには先見の目があったんです。

学期の途中でおぼっちゃま寄宿者学校を飛び出しパディのような音楽家たちとつるむようになったガレクは、パディを自分のベンツに載せて、アイルランド中の音楽フェスティバルに出かけるようになります。パディもそうやって少しずつ自分の人脈も広げていきました。パディは社交家としても優秀で、すぐガレクの仲間たちにも受け入れられるようになります。一方で演奏が飛び抜けて上手くジョークもいかしているパディを連れて歩くことはガレクに取って自慢だったに違いありません。パディによるとカレーを初めて食べさせてくれたのもガレクだったそうで、そのあまりの美味さに本当にびっくりしたのだそうです。

しかしそれでもパディはバクセンデイルズ社での毎日の仕事もとても大切にしていました。音楽はお小遣いにはなったし楽しかったし、ガレクとつるんでいれば楽しかったけれど、音楽で生活していこうなんて夢にも思わなかったんですね。自分はお金持ちの生まれである彼とは違うとしっかり認識してたんだと思います。若かっただろうに,偉いですよね。

ところがとある友人がRTEのラジオで子供番組をやることになって、パディはその音楽を担当することになった。問題はパディの勤務時間と生放送であるその番組の時間が重なっていたこと。そこでパディは放送局の近所の友達の家に学期を預け、毎週放送日になると文房具を買いに行くふりをしてオフィスを抜け出していたんだって。幸いにもこの放送は会社にバレることはなく、パディは無事会社でも昇進を重ねていったらしいのです。

この頃にはガールフレンドのリタもパディの伝統音楽活動につきあうようになっていきます。パディとガレクと一緒に狂乱の伝統音楽パーティに行ったリタは朝帰りしたこともあって、翌朝リタのおばあちゃんはカンカンになって家の前で彼女の帰りを待っていた。3人は一緒にリタの家の方向に歩いていったのだけど、おばあちゃんの怒る姿をみたとたん、男2人はリタを見捨てて一目散に逃げ出したそうです。(パディはまだ20歳そこそこ、リタは17歳だったので無理もないですね…。それにしても爆笑。絵が見えるようだ…。そしてまだ奥さんにこのことを恨みに思われているというパディ、ちょっと笑えます!)

巨匠の名盤
そして1959年。ガレクはついに伝統音楽をレコードに記録することを決意します。これがクラダ・レコードの始まりです。当時はインディーズのミュージシャンが簡単にCDを出せるようなそんな時代ではありません。CD…もといLPを出すことは、ものすごくお金のかかる事業でした。彼は自分のフラットにオフィスを設立し、パディの恩師レオ・ロウサムのLP「Leo Rowsome is the king of the pipers」を録音したのでした。「すべての大きなレコード会社はパイプのソロを20分なんて誰も聞かないと思っていた」とはガレクの弁。(ちなみにもう1つの有名なアイルランド音楽のレーベルといえばゲール・リンですが、こちらは1953年設立、半官半民の組織ですからだいぶ事情が違います。またレオ・ロウサムは何枚かデッカやH.M.Vに録音を残していますが、彼の名前のもとでのちゃんとした録音はこれ以前には存在しませんでした)

しかしながら当時の、伝統音楽に対する世間の目は冷たかった。ガレクは「田舎者たちと遊び歩くのが大好きな好事家」と見られていたし、容赦ない非難も多くあったのだそうです。いや、新しいことを始めるのは難しい… それはいつの時代も一緒です。でも少しずつ彼等の活動は評価されていきます。パディはプロデューサー、実務家としてガレクをサポートしました。そして徐々にアイルランド伝統音楽のリバイバルが始まっていくのです。

またこの素晴らしい音楽家との出会いがパディの人生を大きく変えて行きます。

ショーン・オ・リアダは1931年コークの生まれ。当初はジョン・リーディという英語名を名乗っていました。お父さんは軍人でフィドルが上手だったらしい。お母さんの方は熱心にショーンにピアノの先生をつけたり音楽教育に熱心だったんだって。一家はクレア州アデア(あの綺麗な村ですね)に引っ越し、そこでジョンはたくさんの伝統音楽にふれることになります。

Mise Eireの映画公開
1952年に大学を卒業した時、ジョンはジャズに傾倒していたんだけど、彼に運がむいてくるのはダブリンのアビー座に音楽監督として迎えられた時だったそうで、パディともアビー座で出会うことになりました。

1959年の後半、ジョンはショーン・オ・リアダとアイルランド名を名乗るようになり、アイルランド初のゲール語によるドキュメンタリー映画「Mise Eire」の音楽を手掛けます。この映画を見たパディは度肝を抜かれたのだそうです。自分が子供のころから演奏してきた伝統音楽に、こんな風にフル・オーケストラが付いた。「大きな葉巻を悠然とくゆらすオ・リアダの強烈なカリスマに僕は圧倒された」とパディは言います。が、カリスマの仮面の下には彼のシャイでアーティスティックな面もかくれていたとも。

また、この頃のちにチーフタンズのフィドル奏者となるマーティン・フェイもアビー座にやってきます。ダブリン生まれでクラシック・ヴァイオリニストになるべく頑張っていたマーティンでしたが、結局9時/5時の仕事につくしかないと感じ、ユニデアというダブリンの電気機器会社に勤務しながら、夜はアビー座で演奏を続けていました。マーティンは自分はクラシックの奏者で伝統音楽の専門家ではなかった、と言います。そして「私以外の全員は伝統音楽の専門家だったんだ」と話しています。「私にとってはアイルランド音楽もルーマニアやハンガリーの音楽もすべて同じように聞こえた」

一方でパディはオ・リアダにアビー座のソリストとして重用され、2人は最強のタッグを組んで行くことになります。ある意味破滅的な性格だったオ・リアダをパディは支え、名番頭としてバンドの経理や取り立てを担当するのもパディだったらしい。一方でパディやマーティンに酒を教えたのはオ・リアダなんだって。

とある大きなプロジェクトの仕事が一段落するとオ・リアダは自分のフォーク・オーケストラを始動させることにしました。ここで集められたのはパディ(パイプ、ホイッスル)、そしてマイケル・タブリディ(フルート)、ショーン・ポッツ(ホイッスル) 他のメンバーでした。これが将来、チーフタンズの母体になっていくわけですが、それはまだまだ先の話。

彼等の最初のリハーサルにたちあった経験豊富な音楽評論家が話します。「あの晩に演奏された音楽なら良く覚えている」「オ・リアダの狙いは伝統音楽に内在する論理性を発展させることにあった。私の知る限り、あれと比べられるものはジャズしかない。オ・リアダはすべての楽器を自由に演奏させていた。いわゆるブレイクのパートまで各楽器に割り振っていたんだ。それでもなお彼は全体に統一感を与えることに成功していた。聴こえてきた音楽は、私たちのほとんどが昔からよく知る曲であったにもかかわらず、非常に刺激的だった」

バンドが固まってくるにつけ、メンバーの気持ちも盛り上がってきます。この頃は郵便局員だったショーン・ポッツが「僕らはプレスリーのような金持ちになるんじゃないか?」とオ・リアダに質問したのだそうです。それにオ・リアダはこう答えたんだって。「ファンは大勢つくだろうが、自分がいちばん強く望んでいるのは、ほかのグループが自分たちの演奏をコピーすることだ。それが伝統音楽全体のためになるのだから」

うーん,深い!! まさにそれが伝統音楽のあるべき姿(あ、また「べき」とか言っちゃった)ですよね… かっこいい!!

(3)に続く。

チーフタンズの公演チケットは10月9日の「秋のケルト市」でも購入いただけますよ。アイルランドの音楽、文化、カルチャー、食が集合したイベントです。アイルランドのガイド・ブックを最近出版された山下直子さんのトークショウ他、豊田耕三さんのホイッスル・ワークショップなど盛りだくさん。是非ご来場ください。詳細はここ


チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール 
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール